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「見田宗介」先生の訃報に接して

 先日(4月10日)の朝日新聞で,社会学者の見田宗介先生(東大名誉教授)の訃報が載せられていた。享年84歳で,死因は敗血症とか。
 見田宗介先生は,私の大学の教養部時代,新進気鋭の社会学者として評価が高く,見田ゼミは,非常に人気が高かった。社会学を専攻していた友人N君に見田先生のことを尋ねたことがあるが,他の社会学者については酷評するN君も,見田先生には一目置き,敬意を払っていた。だが,学生時代の私には,見田先生の論考は難しすぎたので,敬遠していた記憶がある。

 てなわけで,訃報の後は,どなたかが,見田先生の人物評価や,業績評価にかかる寄稿をされるに違いないと思っていたところ,4月14日の朝日新聞で,大澤真幸氏(社会学者)の「見田宗介さんを悼む」との寄稿文が掲載されていた。

最高度の激賞ぶりだ。
曰く「大学に入って間もない18歳の春であった。少人数のセミナー形式の授業での先生の講義に,私は衝撃を受けた。」
「私はそのとき,心底から納得した。生きることと学問することとはひとつになりうる,と。・・・十分に深く明晰な学問的認識を通じて,人生の困難と対決し,それを乗り越えることができる。先生の比較社会学の講義を聴きながら,私は興奮した。」と。

だが,大澤氏の短い寄稿文では,見田先生の論証命題は述べられているが,その具体的な根拠は示されていない。「(見田先生は)『人間は必ず死ぬのだから人生は虚しい』という,一見疑う余地のなく正しい命題を反証してみせる。」といわれるが,本当に「反証」などできているのか? あるいは,「(見田先生は)・・・エゴイズムの克服可能性という結論を導き出している。」といわれるが,「エゴイズムの克服」など真に可能なのであろうか?とか。

もっとも,大澤氏の論評で共感できるところがある。
見田先生の文章が,ダンテの如く詩的で,物事の本質を突いているように思えることだ。曰く「美しく無駄のない先生の文章は,ひとつの詩でもあった。詩人の直観と科学者の堅実性。2つの才能をもっている学者は稀である。しかも見田先生の場合,2つが融合し,完全に1つになっている。」

今から,10年以上も昔(2008年=平成20年12月31日,つまり大晦日),見田先生のインタビューをもとに,永山則夫(当時19歳。以下連続ピストル射殺事件(1968年)と,加藤智大(当時25歳。以下秋葉原・無差別殺傷事件(2008年)の異同を論じた記事の切り抜きが残っていたので,「覚書」として,要点を整理・紹介しておきたい。(註:秋葉原・無差別殺傷事件とは,Kが,東京・秋葉原で,トラックではねたり,ナイフを刺したりして,合計17人を殺傷した事件である。)

見田先生によると,N・Kともに,本州最北端の青森県出身の若者が,東京で事件を起こしたこと,いずれも貧困・被差別・各時代の最底辺の労働を担っていたこと,そして,ともに事件の動機が「わかりにくい」ことで共通しており,その「わかりにくさ」の理由として,各犯罪の核に,「実存的」な生き方,アイデンティティーの問題が潜んでいることが考えられる。

ところが,N・Kには,決定的な違いがある。
すなわち,「実存的」な核の中身が,正反対であるということだ。
その理由は2つある。

第1の違いは,「未来の消滅」。Nには,(1970年代の若者の殆どがそうであったように)「今よりは素晴らしい未来がある」という前提(希望)をもっていたが,Kの場合,「素晴らしい未来が必ずくる」などとは思っていないし,(見田ゼミの学生らと同様)「夢や未来に対する想像力のスケールがどんどんしぼんで,現実的になっている。」とのこと。

第2の違いは,人々の「まなざし」に関して。Nの場合,中卒,貧困家庭出身,青森弁など世間の人々の「まなざし」が,鳥もちのようにまとわりついて,彼の自由を奪ってきたが,Kの場合は,それとは反対に,誰からも相手にされないという「『まなざし』の不存在の地獄」に陥り,犯行を通じて,自分の存在をアピールし,叫ぶしかなかった。

日本は,戦前の「共同体」や,戦時体制のような「(空気が)濃すぎる社会」から戦後の近代化を経て,「空気が薄い」時代へ移行し,その結果,現代(2008年当時)は,「(空気が)薄くなりすぎた」という問題が出てきた。そして,電子メディアの発達により,「古典的な現実」にかわって,「バーチャル(仮想)の時代」へと移行する。つまり,「バーチャルな世界だけで,人間は,幸せにやっていけるんだと多くの人々は思い込み,虚構に居直った時代」を迎えた。

ところが,「薄くなりすぎ」た「バーチャルな時代」の中で,「古典的な現実」への飢えが充満するようになり,「バーチャルな時代」が臨界点に達した。Kの事件は,このことを象徴する,と(見田先生は)言われる。
換言すれば,秋葉原・無差別殺傷事件(2008年)の根底にあるのは,「リアリティーの飢え」であり,「空気の希薄化した時代」ゆえに,「リアリティーを充実させる仕方」を青年たちが見つけることができれば,新しい時代が切り開かれる,とのこと。

・・・だが,この記事が掲載されてから,14年が経過した今日。
新型コロナウイルスや,SNS等で分断された今日の社会は,さらに「空気が希薄化」しているように思えるが。

 

見田先生のご冥福を祈ります。