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持統天皇と,柿本人麿の関係

柿本人麿は,持統天皇に仕えた宮廷歌人であるが,持統天皇(女帝)を「現人神(あらひとがみ)」としてあがめ奉る歌を詠んでいる。

大君(おおきみ)は 神にしませば 天雲(あまぐも)
(いかずち)の上(うへ)に廬(いほ)らせるかも(巻3-235)

[大意]わが大君(持統天皇)は,現人神であられるので,天に轟く(とどろく)雷神の上に,君臨されている(神隋[かみながら]におわします)

さて,この歌の歌意はともかく,宮廷歌人である人麿は,実際には,持統天皇のことをどのように思っていたのだろうか? 持統天皇のことを本気で「現人神」だと思っていたのか(以下,「天皇崇拝説」という。),あるいは,立場上,「太鼓持ち」のごとく大君を持ち上げる歌を詠まざるを得なかったのであったに過ぎず,人麿の真意ではないと考えられるか(以下,「太鼓持ち的役人説」という。)。

いくら古の天皇とはいえ人間であって,「仰々しい誇張」,「歌の興」に過ぎないとみる太鼓持ち的役人説が通説かと思いきや,驚いたことに,かの「斎藤茂吉」は,この歌について,人麿が「天皇の御威徳を讃仰し奉ったもの」で,「人麿の真率(しんそつ)な態度」を強く示されていると述べており,天皇崇拝説を採る。その理由としてあげられていることは,①「この一首の荘重な歌詞」は,「手軽な心境では決して成就し得るものではないこと」,② 「抒情詩としての歌の声調は,人を欺くことの出来ぬものである」「人麿は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であった」等等と,断定的に述べられている(『万葉秀歌・上巻』岩波新書)。

だが,はたしてそうか?

人麿が和歌を「真率(しんそつ)」に詠んだであろうことは否定しないが,まったく「底意」がなかったか?,「人を欺かぬ」歌人だったと断定できるか?といえば,やはり疑問符がつく。

ブログなので詳細は書けないが,おそらく人麿は,処刑されたと思われる信条が天皇崇拝で貫かれていたのであれば,天皇の命令で処刑されることはあるまい。

「処刑されたかどうかわからぬではないか」という向きもあるかもしれないが,
人麿の「辞世の句」とされている次の自作の挽歌「柿本朝臣人麻呂,石見の国に在りて死に臨む時に,自ら傷みて作る歌」は,明らかに(病気によらずして)自己の死期を覚悟した者の歌であろう。

鴨山の磐根(いわね)しまける 我れをかも 
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ
(巻2-223)
[大意]鴨山(地名)の岩(巌)を枕として私が死んでいることを知らずに,わが妻は,私の帰るのを待ちわびているのであろう。まことに悲しい。

万葉集では,上掲・人麿の歌(巻2-223)に続けて,
柿本朝臣人麻呂が死にし時に,妻依羅娘子(よさみのおとめ)が作る歌2首が載せられているが,妻は,人麿の消息を知り得ないはずであるから,次の2首も「妻が詠んだ体裁をとって」,実は,人麿が(妻の気持ちになって)詠んだ挽歌であろう(このような技巧は,「現実とは異なる」という意味では,「人を欺いて」妻が詠んだと思わせるものであろう。)

今日今日(けふけふ)と 我が待つ君は 石川の 
(かひ)に混じりて ありといはずやも(巻2-224)

[大意]今日か今日かと私が待ち焦がれているあなた(人麿)は,石川の山峡に迷いこんでしまっているというではないか。

(ただ)に逢はば 逢ひかつましじ 石川に
雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ(巻2-225)

[大意]直にお逢いすることはもはや無理でしょう。石川に立ち現れた雲を見て,あなたのことを偲びましょう。

人麿は,宮廷歌人=役人としての立場上,大君=持統天皇の前では,忠誠心の塊のような態度で接していただろう。だが,彼の「底意」としては,壬申の乱で,天武=持統に倒された大友皇子に同情的だったのではないか。そのことを示す歌が,「近江の荒れたる都を過ぐる時に,柿本朝臣人麻呂が作る歌」(巻1-29)ではないか。最後の三句はももしきの 大宮どころ 見れば悲しも(荒涼とした宮殿の廃墟を見ると悲しい)で結ばれている。