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富山県(越中)に遺る円空仏の造顕時期

富山県に遺る円空仏は、三〇体が確認されているが、このうち二四体が、岐阜県との県境に位置する細入村に集中している。主たる像は、光厳寺(富山市五番町)の観音菩薩・善女龍王・善財童子の三尊像、細入村の白山宮から発見された、白山妙理大権現・白山金剛童子・白山不思儀十万金剛童子の三尊像、白山神社(細入村)に祀られていた白山神像二体、慈眼寺(細入村)に祀られていた善女龍王・善財童子の他は、各民家で祀られていた像高約一〇㎝以下の観音菩薩座像である。これら富山県(越中)に遺る円空仏は、いずれも眉目を細い刻線で表し、口元に笑みを表現するといった簡素な顔立ちを特徴とする。したがって、同じ時期、一連の巡錫・巡礼活動の過程で造顕されたものと考えられる。

 

 

 では、円空が、富山県(越中)を訪れたのは、いつ頃のことであろうか。

 「入定三一〇年 圓空展」の図録によれば、「円空が越中に巡錫の歩を向けたのは、立山登拝が目的であり、それは元禄二年のことと思われる」と書かれているが、これについて明確な根拠は示されておらず小島梯次著「円空仏入門」でも、富山に遺る円空仏の造顕時期については言及されていない。
 思うに、右に述べたように簡素・素朴な共通の特徴をもつ富山の円空仏の造顕時期については、ギョロッとした目を特徴とする両面宿儺、仁王、護法神等の千光寺及びその周辺区域(岐阜県上宝村地区)に遺る円空仏と比べ、枯淡の境地を窺わせるものであることに照らすと、直観的には、確かに右図録の見解のとおり元禄期の造顕であると考えられる。
 もっとも、その一方で、元禄二年(一六八九年)円空(当時五八歳)は、二つの事跡を遺している。具体的には、同年三月七日、旧太平寺(滋賀県伊吹町)の観音堂(現・春照観音堂)にて十一面観音を造顕しており、次いで、同年八月九日、園城寺(滋賀県大津市。天台寺門宗の総本山)の尊栄から、血脈(「授決集最秘師資相承血脈譜」)を授けられると同時に、自坊の弥勒寺を園城寺の末寺に加えてもらっている。
 そこで、富山の巡錫時期としては、論理的には、右(滋賀県伊吹町巡業)より前(A説)か、右と右(同県大津市巡業)との中間時期(B説)か、右以後の時期(C説)か、が問題となりうる。
 ところで、富山県(越中)での、巡錫・巡礼の時期を特定するに当たって考慮されるべきことは、近隣における円空仏の分布状況との関係ないし順路であろう。この点、富山の円空仏が比較的多く分布する細入村は、前述のとおり岐阜県の県境に位置し、岐阜県の最北端に位置する神岡町と隣接するが、実は、神岡町に分布する円空仏の特徴も、富山(越中)のそれと共通しており、極めて簡素・素朴である。また、多くの民家に像高10㎝前後の小さな観音菩薩坐像を遺していることも、富山(越中)と神岡町に遺る円空仏は共通している。したがって、両地区に分布する円空仏とは、同時期に造顕されたもの考えられる。

 このように考えると、富山の巡錫時期に関する三つの論理的可能性のうち、B説(右①②の中間)は考えにくい。何故なら、この間わずか五か月の間で、滋賀・岐阜神岡町・富山を往復し、両区域にまたがって、白山神にまつわり、枯淡の境地を示す、数多くの神仏像や、民家に遺る数多くの観音菩薩像を遺すことは到底不可能だと思われるからである。むしろ、この期間、円空は、天台寺門宗総本山からの血脈承継のために必要な諸種の修法・経典・教養の獲得のために精進していたものと考えた方が合理的である。
 では、右①の時期(滋賀県伊吹町での巡錫・巡礼より前)はどうか。
 この時期の円空の事跡としては、千光寺(高山市丹生川町)に遺る弁財天厨子の銘貞享二年五月)、板殿薬師堂(同町)の鰐口銘同年六月)から、円空は、貞享二年頃、千光寺周辺区域にて居住・巡錫していたことは明らかであり、また、等覚寺(長野県木曽郡南木曽町)に遺る弁財天像の棟札貞享三年八月一二日)によれば、円空は、その後、木曽路に向かったものと考えられる。そして、それ以後の円空の順路は不明であるが、「飛州誌」の記述(貞享四年、円空は、高山城(飛州)の没落を予言し、「不祥の地には居るべからず」と述べて、高山城下の地を去ったと記録されている。)によれば、円空が千光寺周辺地区を去ったのは、貞享四年(一六八七年)の年末(「貞享の末」)のことである。
 このように考えると、貞享四年末、円空(当時五六歳)は、飛騨の地を北上し、その翌年の元禄元年(一六八八年)頃には、神岡町及び富山(越中)地域を巡錫していた可能性が十分に考えられる。この意味で、富山の巡錫時期については、A説、すなわち、滋賀県伊吹町巡業(①)より前の元禄元年から同二年二月頃までの時期と考えることに合理性がある。
 これに対し、富山の巡錫時期に係る前記C説は、採用できない。論理的に考えると、元禄二年(一六八九年)八月九日、園城寺(滋賀県大津市)の尊栄から血脈を授けられ、自坊が同寺の末寺に加えられた、前記②の日以後は、元禄三年(一六九〇年)九月二六日頃、桂峯寺付近(岐阜県高山市上宝町長倉)にて観音三尊像を造顕するまで(今上皇帝像背銘)の間、円空の事跡は、現存する文化財等から確認できず、途絶えていることから、この間、岐阜神岡町・富山を巡錫した可能性が考えられなくはない。しかしながら、この時期の円空は、自身の再興により園城寺の末寺に加えられた自坊弥勒寺(岐阜県関市池尻)において、多くの仏像を造顕していたものと考える方が合理的である。何故なら、他院での神仏像より、まずは自坊の仏像を充実させることこそが、円空にとっての優先課題となったはずであるし、実際、弥勒寺には、数百体もの円空仏が遺されていたところ、大正年間に発生した二回の火事で、これら円空仏も含め全焼してしまったとされているのであるから(丸山尚一「円空風土記」一八九頁以下)、このような多数の仏像を造顕できた時期としては、同寺再興直後の「空白の」時期以外には考えにくいからである。
 以上の考察からすると、富山(越中)に遺る円空仏の造顕時期は、元禄元年(一六八八年)ころと考えるのが適切である。

 ちなみに、元禄2年(1689年)円空(当時56歳)は、三月七日と八月九日、いずれも滋賀県の地で、前述したとおり二つの事跡を遺しているが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、芭蕉(当時46歳)が、元禄二年(1689年)三月二七日に江戸・深川を出発して、八月下旬、岐阜県(美濃)大垣に着くまでの紀行である。したがって、二人は、袖すり合うことはなかったにしても、同じ時代の空気を吸っていたことになる。