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嵐山光三郎著「超訳 芭蕉百句」のすすめ

このほど、嵐山光三郎著「超訳 芭蕉百句(ちくま新書。以下「嵐山訳という。)を読んで、大層面白かったので、読書ノートを兼ねて、私のブログ読者にも紹介し、お薦めしておきたい。
私は、元来、詩と俳句の評価については、その主観性・あいまい性ゆえに消極的だったが、芭蕉の俳句に係る「嵐山訳」は、非常に分かり易く、「百句すべてを現場検証した」上での、説得的な解釈論を展開されているがゆえに、俳句に対する評価が俄然変わった。

嵐山訳が分かり易いのは、日本語として分かり易いことは勿論であるが、著者は意識しているかどうかはともかく(多分、無意識に自覚していると思う。)、「分析(analysis)」と「解釈(interpretatio)」とを明解に区別されているからだと思う。言葉の意味を解きほぐして分析的に理解するのは「分析」であって「解釈」ではない。「文学作品におけるinterpretatioとは、その作品の言葉をまず『分析』して文法的辞書的意味を理解したうえで、その意味が『何を指示し、または教えているか』を『翻訳』することである」(今道友信「ダンテ『神曲』講義」)。 嵐山訳は、芭蕉の句の文法的辞書的意味を読者にわかりやすく説明した上で、作品の背景、具体的には、「古典文学の下敷」(謡曲、漢詩、西行・宗祇等)、「作品現場の状況」、そして、芭蕉の性的な嗜好等を的確に教示してくれるからだ。

例えば、

初しぐれ 猿も小蓑(こみの)をほしげ也(なり)
     『猿蓑』(一・冬)

「『おくのほそ道』の旅を終えた四十六歳の芭蕉は、大垣に二週間あまり逗留(とうりゅう)した後」、「伊勢から伊賀上野へむかう山中で、雨が降り出した。時雨にぬれながら歩いていくと一匹の猿に出会った。冬が近づいて肌寒い山中で、猿が木の上で小さくなってふるえている。芭蕉は蓑をつけているが、猿はなにもつけていなかった。雨にぬれそぼる猿を見て、『おまえも蓑がほしいんだろう』と思いやった句である。」

ここまでは、句の「分析(analysis)」である。

これに対し、「わびしげな猿の姿は、そのまま、芭蕉じしんの姿でもあり、猿に語りかける『軽み』がある」、「山中での寂しさが、猿のあわれさを強調している。さらに、『ほしげ也』という観察に、猿とじゃれあう感情移入がこめられている。」

というのは、「解釈(interpretatio)」であろう。

また、

鷹一つ見付(みつけ)てうれしいいらご(伊良湖)
『笈の小文』伊良湖

この句の意味について、「伊良湖(愛知県・渥美半島先端)へきて、鷹が飛んでいるのを見つけて、(そこに杜国の姿を思いうかべて)嬉しい」というのは、「分析(analysis)」であるが、「そこに杜国の姿を思いうかべて」、「鷹とは杜国のことである。」というのは、「解釈(interpretatio)」である。勿論、そのような解釈が『客観的に』成立するには、杜国が『空米売買の罪で家屋敷をとりあげられ、(江戸を)追放となり、三河国渥美(あつみ)郡畠村(はたけむら)(現在の渥美町)へ閉居した』との史実、「白げしに羽もく蝶の形見哉」という尋常でない句との関係性、「万菊丸とは、なんとも稚児まる出しの名で、菊花は修道(しゅうどう)を暗示する」等等の緻密な「分析(analysis)」が前提である。

嵐山訳が説得的であるのは、「現場検証」をされている上、「タブー」(「芭蕉の生涯にわたる衆道好み(男色)」)をタブー視していないことにある。嵐山訳の解釈(interpretatio)のとおり、芭蕉が、(主君)藤堂良忠(俳号・蝉吟[せんぎん])、前掲「杜国」、あるいは、「おおくの細道」を同道した「曾良(そら)」とも、同性愛の関係にあったであろうことは、ほぼ間違いないと思われる。その理由については、本書を読んでいただければ、皆さん、納得されると思う。芭蕉は、杜国(万菊丸)について、「いらご崎にて契(ちぎ)り置(おき)し人」と言っている(137頁、145頁)。

芭蕉の如上の背景事情を理解すると、
カノ名句「(しづか)さや岩にしみ入(いる)(せみ)の聲(こえ)」も、「教科書では教えない」別の意味合いを持つことが分かる。嵐山訳によれば、「芭蕉は蝉の声のなかに、もうひとりの声を聞いている。それは主君藤堂良忠である。良忠は蝉吟[せんぎん]と号し、芭蕉は近習として仕えていた。二歳上の蝉吟は、…芭蕉に句を教えてくれた恩人である。初恋の人である。」

芭蕉の句は難解な句が少なくない。不明確な「分析(analysis)」と、主観的・恣意的な「解釈(interpretatio)」では、腑(ふ)に落ちない。このような読者の精神状態について、嵐山さんは、「この句はどうも意味がわかりにくく、胸にストンと落ちてこない」、「奥歯に疑問がはさまったままの消化不良の訳になった」と先人の「分析(analysis)」や「解釈(interpretatio)」を批判された上で、「こういうときは現場検証をすればたちどころに句の本意がとけてくる。」と説かれる。このような前置きをして、解説されているのが、次の一句。

田一枚(まい)(うへ)てたち去(さ)る柳かな

 『おくのほそ道』芦野

嵐山訳を読むと、なるほどぉ!!と思う。
この句に係る嵐山訳こそ、本書の面目躍如、といったところですね。