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続・富山県(越中)に遺る円空仏の造顕時期

先のブログ「富山県(越中)に遺る円空仏の造顕時期」では、円空が岐阜県神岡町を経由し、富山県(越中)にて巡錫した時期につき、元禄元年(1688年)頃のことだと論じた。
(https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=18304 参照)

ところが、
上記私見に対し、円空が、神通川沿いに(=岐阜県神岡町を経由して)
越中(富山県)に向かったのは元禄五年の秋から冬にかけて」である、という見解(棚橋一晃『奇僧円空』161頁以下、1974年。以下「棚橋説」という。)がある。

曰く「次の諸歌は、元禄五年の秋から冬にかけて、彼(円空)が飛騨地方を、神通川沿いに、越中に向かって巡錫していたことを物語っている。

人しらぬ世においわり笈破)の山なれや いはひにいはふ【注1】誓在(ましま)す
飛騨の国作る仏の小刀も 漆山)の淵に納むる哉
深山木をたおして入る横山の 作れる家のみねのかずかず
打渡る作る越路の籠橋や 只ひとすじに渡る雁金(かりがね)
渡津海の神の住家の淵なるか 寺州寺津)の里を守り在せ
鳥の子の子かや小萱)薬師作るらん 十二子共の神ぞかたけれ

右(上掲)のうち、笈破、横山、小萱(子かや)の地名は、岐阜県神岡町に遺っている。寺津(寺州)は越中領で、円空はこのあたりから引き返して、穂高・乗鞍の山麓地方にむかった模様である。」

【注1】「いはひにいはふ」とあるが、原文は「ササふ」である。初心者には、何のことやらわからないが、実は、「ササ」は、草冠を二つ並べた円空独自の略語で、「菩薩」を意味する。「菩薩」を動詞化したのが「ササふ」であるが、「あまねくすくう(普く救済する)」という趣旨であろう(吉田富夫「高賀神社蔵円空自筆詩歌集について・1」『円空研究=1』所収)。

 

しかしながら、上掲・棚橋説には、そもそも理由が示されておらず(「ここらあたりから引き返して」とあるは、「寺津=寺州=越中領から南方に引き返した」かのように読めるが、円空が、寺津よりも北方に位置する光厳寺[富山市]にて観音菩薩三尊像を遺していることとの関係も不明である。)、結論的は、単なる「勘違い」をされたか、間違っているものと考えざるをえない。
 なぜなら、上掲・諸歌は、いずれも高賀神社(岐阜県関市)が所蔵する大般若経に裏張された「見返し」の紙に遺されていた、円空の歌稿であるが、この大般若経の挟まれていた紙片には元禄五年壬申歴(1692年)五月吉日といった奥書のような記載があり、当該歌稿の中で年号が明らかな歌の最後も「元禄五年壬申」の年(1692年)の春を詠んだ歌(「冬なから悪きおの年ならて花より外はへの春」四九九番)であるから(小島梯次「円空・人」172頁以下)、論理的には、越中(富山)に向かう途上の岐阜県神岡町で詠まれた上記諸歌も含め「高賀神社・歌稿」は、すべて「元禄五年壬申」春「よりも前」に詠まれた歌ということになるはずだからである。また、現実的に考えても、円空が入寂(死去)したのは、墓碑銘(岐阜県関市池尻)によれば、元禄八年(1695年)であるから、元禄四年ころの南飛騨(下呂等)での一連の巡錫を経て、高賀神社(美濃:岐阜県関市)に戻り、少なくとも元禄五年五月まで、同神社に逗留していた円空(当時61歳)が、入寂前の2年間、近所の自坊・弥勒寺(岐阜県関市池尻)にて落ち着かずして、美濃(岐阜県関市)から奥飛騨(神岡町)を経て、越中(富山)に向かうなどという、「遠大な」巡錫・巡業の旅に出た、というのは考えにくい、というべきであろう。

なお、棚橋一晃『奇僧円空』では、上掲・各歌の意味について、
「最後の歌中の『鳥の子』とは、鳥面人身の護法神のことで、『十二子共』とは、薬師如来の眷属十二神将の意味である。神岡町の小萱薬師堂には、この歌と対応する迦楼羅形の護法神像【注2】と、薬師像【注3】が現存する。」との注釈しか述べられていないが、棚橋説で紹介されている上掲諸歌を含め、円空が「岐阜県神岡町で」詠んだ歌については、追って、その「分析(analysis)」と「解釈(interpretatio)」を試みたい、と思う。

【注2】棚橋氏が、同書で紹介している「迦楼羅形の護法神像」は、下掲の像であるが、神岡町教育委員会編「神岡の円空」(平成10年10月12日発行)によれば、当該護法神像は、上小萱・白山神社の所蔵とされている。

 

【注3】