北口雅章法律事務所

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円空が渡った橋

円空(松尾芭蕉と同じ時代を生きた修験者・仏師)が神岡町で詠んだ歌を通覧すると、「橋」が多く出てくる。

三〇二[舟津舟戸丁朝社清れ法道岩ノ肩ニ掛る
九七一[村]といふ止る馬の足絶ていさミにかくる法の
九七二[茂住]もすミ(茂住)なる谷の藤結らん山おり姫の幡かとそミる

これは、奥飛騨の神岡町の村落は、神通川(現・高原川)の急流によって形成された谷間にあり、対岸に通行するには、随所で橋が不可欠だったからではないか。もっとも、法道」=「仏法の道」に掛かる橋(三〇二)、すなわち、「法の橋」(九七一)となれば、抽象的な橋が観念されているのであろうが、円空においては、どのような橋をイメージされていたのであろうか。一方、茂住(もずみ)の谷に掛けられた藤橋(九七二)は、上掲歌意からすれば、山織姫(やまおりひめ)」の「(はた)」(≒機織)を連想させる形状をもった具体的な橋であろう。

江戸時代の浮世絵から連想するに、葛飾北斎が描いた上掲「飛越の堺つりはし」では、円空の歌のイメージに合わない。むしろ、歌川広重が描いた下掲「弓張月」に出てくる橋の方がこれに近いであろう。

 

もっとも、このような橋を見ても、「山織姫(やまおりひめ)」の「幡(はた)」(≒機織)のイメージとは結びつかない。

山織姫の幡(はた)」というからには、茂住(もずみ)の谷に掛けられた藤橋(九七二)は、下掲のような橋であったに違いない。

 

ちなみに、茂住の地名は、岐阜県図書館が公開している古地図にも、飛騨(岐阜県)と越中(富山県)との境界付近の神通川流域に出てくる。