北口雅章法律事務所

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円空の和歌にみる宗教観

 以前、小島理事長(円空学会)から学会入会に際して送っていただいた『円空研究』のバックナンバーの中に『円空学会だより』のバックナンバー(第193号)が挟まれていた。改めて手に取ってみると、若森康平氏の連載が既に始まっており、その中(「短歌に見る沙門円空の心7」)で、円空の宗教観を窺わせる歌がいくつか紹介されていた。
 そこで、このうちの3首について、後考を期すべく、私の理解を書き出しておきたい(若森氏の理解とは随分と異なるので、[若森訳]も併記しておく。)。私に明らかな誤解があれば、ご教示いただけるとありがたい。

 

作りおく神の御形(みかげ)の円(まどか)なる浮世を照らす鏡なりけり
[原文]作りおく神の御形の円なる浮世を照らすかゝみなりけり

[分析・解釈]「御形」=「御影」=姿という意味。「円(まどか)なる」とは、「円形」という意味ではなく、「円空」の「円」であると同時に、円空が造顕した(「作りおく」)神像の像容についての形容であるから、像の表情が円満・まろやかで、温かみがあるという意味であろう。ここで「鏡」は、神道における鏡であるから、文字どおりの「ミラー」ではなく、「御神体」であろう。
[歌意]円やかな表情の、満足のいく神像を彫刻できた。様々な苦悩を抱える人々の心を照らす御神体のできあがりだ。
[若森訳]神像を制作した。この像は円満でなごやかに見えるのは、まさに世の中のなごやかな世相を照らす、鏡のようである。

 

●玉ならぬ 心の月を手に結べ 世に有明の仏なりけり
[原文]玉ならぬ心の月を手に結へ世に在明の仏成けり

[分析・解釈]「玉」とは、〈最も尊いもの〉という理解が通説である(小島梯次「円空・人」187頁)。だが、本歌では「玉ならぬ」=「玉ではない」と打ち消され、それに換えて「心の月」を「手に結べ」と歌われている。ここに「心の月」とは、「月輪観」のように心の中で観想した月、つまり、「仏」の象徴であると考えられ(西行にも月を仏の象徴として詠んだ歌がある[例えば、山家集891])、4句5句の「有明の仏」に通ずる。この歌で「手に結ぶ」というのは「合掌」の意味で、「玉」とは、「宝珠」を意味しているものと考える。
[歌意]合掌した手で宝珠を捧げ持つように、「月輪」を捧げ持つことを観想してみなさい。その月こそ、「有明の月」(夜が明けても空に残っている月)のように、四六時中、あなたの心を照らしてくれる「真如の月(御仏)」なのです。
[若森訳]仏にも似た心で浮かぶ月を、手で救い上げれば、夜明けの月であり、仏でもある。
[備考]若森氏は、「手を結べ」を「手を掬ぶ」(救う)の意に理解されているようであるが、この意味で「手を掬ぶ」のは「水を両手ですくう」場合であって(山家集244参照)、「月を両手ですくう」などというであろうか。

 

(まる)となる秋の最中(もなか)の月なるか 心の神の鏡なりけり
[原文]円となる秋のも中の月なるか 心の神の鏡成りけり

[若森訳]中秋の名月は秋の真ん中、心の神を映す鏡なのです。
[分析・解釈]「秋の最中(もなか)の月」が「中秋の名月」を指すことは疑いないが、実景ではなく、観想の中の月を詠んだものであろう。
[歌意]中秋の名月のごとく、円形の月を心の中に観想できました。私の心の内には、御神体が御座します。
[備考]「私ではなくして、私のうちなる神」(Dag Hammarskjold『道しるべ』みすず書房91頁)