北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

鑑真が、日本渡航に固執した理由をめぐって

鑑真は、唐代の中国で律師としての社会的地位を確立していた高僧であり、弟子達の反対・心配を余所に、五回もの渡航失敗にめげず、また、両眼を失明したにもかかわらず、日本渡航を果たした。ここまで鑑真が日本渡航に執着した理由はどこにあったのか。

史実として知られているのは、日本人の留学僧である栄叡普照が、朝廷=皇族(聖武・孝謙)の意を受けて、長安から大明寺(揚州)在住の鑑真を訪ねて来て、受戒のできる僧侶を招聘するに当たって、その推薦を求めてきたところ、弟子の誰も手を挙げなかったことによる。しかしながら、如上の執念は、どのような動機に基づくものか。

 

「仏法興隆のため」というのは建前論で、⑴ やはり栄叡・普照の熱意にほだされたというが出発点であろうが、それとともに、伝説として伝えられていることは、⑵ 天台の高僧であった慧思が、没後、東方の国に仏教を広めたという伝承があり、また、⑶ 長屋王が仏法を崇敬して、中国の僧侶に袈裟を送った際、その縁に「山川異域 風月同天(離れていても、私たちは同じ空を見ている) 寄諸仏子 共結来縁(仏教徒は、ともに縁でつながっている)」という漢詩を刺繍していたという逸話を(栄叡と普照から来日の懇請を受けた際に)想起したという伝承が「唐大和上東征伝」(淡海三船)に出てくることから、鑑真が日本に相当な親近感を持っていたことは疑う余地はないだろう。

とはいえ、鑑真が、五回もの渡航失敗にめげず、両眼を失明したにもかかわらず、日本渡航に固執した理由は、それだけではないだろう。やはり、多数の弟子と手工芸の技師を従えて、彼らの前で、「高邁なスローガン(日本での受戒・教化活動)」を高らかに公言した手前、「引くに引けなかった」というのが実際のところではないか。途中で諦めたら、カッコ悪いもんなぁ。もっとも、鑑真を日本に引き連れてくることができたのは、遣唐使副使の大伴古麻呂の独断にして英断の功績が大きかったようだ(鑑真にとっては、「渡りに船」だったようだ。)。

この点、鑑真の、日本への渡航の動機(「鑑真の思い」)については、東野治之先生(奈良大学教授『遣唐使』岩波新書)によると、「結論からいえば、鑑真には、生まれて初めて訪れたこの国に、どのような質の仏典写本があるのか、確かめておきたいという思いがあったのではないか。」と述べておられる。この東野説の根拠は、『続日本紀』の鑑真伝に、「失明していたにもかかわらず、彼が経典を暗記していて、写本の誤りを正した」とあり、正倉院に残る鑑真名義の手紙で、天平勝宝6年(754)、鑑真が僧都(おそらく東大寺・良弁)に宛てて経典四種の借用を依頼した、という趣旨の手紙が残っていることが背景にあるのであろう。
 しかしながら、失明した方がそのような手紙を書くとは思えないし、そのような思いを持つとは到底思えないのだが…