北口雅章法律事務所

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統一教会・献金取戻訴訟の最高裁判決について

先般(令和6年7月11日)、最高裁第一小法は、統一協会に多額の献金をした信者A提訴後にAが死去し、長女Bが訴訟を承継)、統一教会に対して、当該献金の取戻しを求めた裁判で、(信者Aが裁判を起こさないと確約した)「念書」を無効として、取戻しを認める方向での判決をくだした。

 

最高裁の判断は、結論的には、正当であると考えるが、その理由については、必ずしも論理的でないし、説得的でもない。要するに、教団(統一協会)は「やり過ぎだ」と言っているに過ぎない。

この裁判は、煎じ詰めていくと、「宗教の本質とは何か?」、「信仰とは何か?」という根本問題に行き着くのであって、真に統一教会の活動を「宗教活動」と認め、信者Aに「信仰の自由」を認めるのであれば、論理的・法理論的には、東京高裁の判断の方が正当であると思われる。つまり、最高裁は、東京高裁の判断に対し、るる難癖をつけ、もっともらしい「判断枠組み」を示してはいるが、つまるところ、統一教会の活動の「宗教性」を否定し、信者Aの「信仰の自由」を否定しているに等しい。私自身は、統一教会の活動は「宗教を装った財産目当ての韓流・詐欺集団活動」だ(「宗教」の名に値しない。)と思っているので、最高裁の判断は支持できる。しかしながら、最高裁のように、一方で、統一教会の本件活動を「宗教活動」と認めておきながら、最高裁のような理屈で献金取戻しを認めることには、理論的にはゴマカシ・マヤカシがあると思われる。その理由は、次のとおり。

本件裁判の争点は、第1に、亡A(信者)が、献金後に、「教団を訴えない」という不起訴の合意(念書)の有効性、第2に、教団所属の信者による献金勧誘行為が違法と認められるか否か、である。

最高裁が重視している前提事実は、①寄付者(A)の属性、②家庭環境、入信の経緯、③入信後の宗教団体(統一協会)との関わり方、④献金の経緯・目的・額・原審、⑤寄付者(A)又はその配偶者等の資産や生活状況であり、これらを「多角的な観点から検討すること」が求められている、と説示されているが、原審・東京高裁の裁判官の立場からすれば、最高裁に対し、「いや、それらのことは、当然のことながら、全て検討してますよ。」と言いたいに違いない。

最高裁判決を見る限り、具体的な事情として、次の諸事情が認定されている。
Aの属性]統一教会の女性信者にして、本件献金当時80歳前後の高齢(平成27年11月頃、「不訴求の念書」を書いた翌年、平成28年5月、アルツハイマー型認知症により成年後見相当と診断されている)
家庭環境、入信の経緯]24歳で婚姻、夫との間に3女をもうけたが、18歳のときに、妹(当時11歳)が早世(昭和22年)、30歳のとき、義母(夫の母)が自殺、平成10年に二女が離婚し、夫が重病に罹り、入退院を繰り返す、といった不幸が重なった。そこで、平成16年以降、三女(統一教会の信者)の紹介で、入信。
教団との関わり教団の教理によれば、全ての不幸は「怨恨を持つ霊」が引き起こすことから、救済手段として「地獄にいる先祖を解怨」する目的で、「献金」と「儀式」への参加が求められる。そこで、Aは、次の④のとおり多額の献金をするとともに、平成21年から平成27年までの約6年間、合計13回(おそらく半年に1回の頻度)、韓国にて開催される「(地獄にいる先祖の解怨を目的とする)儀式」等に参加した。
献金の程度]Aは、平成17年から平成21年までの約4年間に、数回にわたり合計1億0058万円の献金をし、かつ、自己所有地の売却代金合計7268万円の一部(480万円)を献金し、残る売却代金を教団に預託し、教団から生活費等の支給を受けていた。
Aの生活状況]平成21年に夫死亡後、一人暮らし。

 

【争点1】 念書の有効性

□「念書」には、Aが教団にした献金については、教団に対し「欺罔、強迫又は公序良俗違反を理由とする不当利得返還請求や不法行為に基づく損害賠償請求等」を一切行わない旨の記載があり、Aは、信徒団体(松本信徒会)の婦人部・部長の勧めで、当該書類を作ったというが、バックに教団の顧問弁護士が付いていることは明らかであろう。
□最高裁は、「念書」の有効性については、「諸般の事情を総合考慮」して決すべきであるとの一般論を述べた上で、主として、⑴ 上記①③④の諸事情から、Aが教団の「心理的な影響下にあった」から、「念書」作成の打診を受けたとき、その利害得失を踏まえて「その当否を冷静に判断することが困難な状態」であったこと(合理的な判断の困難な状態)、及び⑵ 「何らの見返りもなく無条件に」教団に対し不訴求の約束をすることは、上記④の献金金額に照らせば、「亡Aが被る不利益の程度は大きい」こと(亡Aに対し一方的に大きな不利益)を理由として、「本件不起訴合意は、公序良俗に反し、無効」であると判示した。

さて、思うに、最高裁の上記理由のうち、⑴の「合理的な理非弁別の困難」な状態という根拠は、煎じ詰めると、要するにa.Aが教団の「心理的な影響下にあった」ことと、b,高齢が理由であろう。
 しかしながら、上記aについては、そもそも「入信=信仰」とは、教団の「心理的な影響下(支配下)」に入ることであるから、そのような精神状態(教団の「心理的な影響下(支配下)」)にある信者にとって、「献金」=「自己救済の手段」であって、最高裁の上記論理は、「入信=信仰」に基づく行動(献金)の法律効果を、「入信=信仰」を理由として否定するに等しく、煎じ詰めれば、「入信=信仰の自由」を否定することになるのではないか。
次に、上記b(高齢)についていえば、Aの場合、念書作成時は「成年後見」を受けていたわけではなく、その意思確認は、周到にも、公証人役場で、公証人が行っていたというのであるから、念書の「公序良俗違反」を基礎づける事情とはいえまい。
 次に、最高裁の上記理由のうち、⑵の「何らの見返りもなく無条件に」、亡Aに一方的に大きな不利益をもたらすという理由についても、本件献金が違法・無効・賠償請求の対象となることを前提とするものであって、本件献金自体が「社会通念上相当な範囲を逸脱するものとして違法とはいえない」こと(原審・東京高裁の判断)を前提とすれば、「念書」の作成自体は、公序良俗違反とはいえまい。
 要するに、最高裁は、本件献金が多額かつ頻回である(「やり過ぎだ」)といいたいだけのことであって、それだけの理由では、「亡Aがその資産や生活の状況に照らして過大な献金を行ったとも認められない」と説示している原審・東京高裁の判断を覆す理由としては、法理論的には、薄弱であるといわざるを得ないであろう。

 

【争点2】本件勧誘行為の違法性について

最高裁は、諸般の事情を「総合的に考慮した上で本件(献金)勧誘行為が勧誘の在り方として社会通念上相当な範囲を逸脱するといえるかを検討する判断枠組み」をとるべきだと説示しているが、最高裁が当該「社会通念上相当な範囲」をする上で、特に重視していることは、「法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律3条1号、2号」を援用していることに照らし、⑴ 第1に、「寄付者の自由な意思」を抑圧・阻害していないか否か、⑵ 第2に、献金により寄付者とその家族が「(生活)困難な状態」に陥っていないか否か、という点であろう。

 ところが、この点、原審・東京高裁の方では、⑴ 「亡Aの自由な意思決定が阻害されたとは認められない」とか、⑵「亡Aがその資産や生活の状況に照らして過大な献金を行ったとは認められない」と判示した上で、「本件勧誘行為が社会通念上相当な範囲を逸脱するものとして違法であるとはいえない。」と判断しているのであるから、このような判断に対し、最高裁から、「考慮すべき事情の一部(つまり、上記⑴⑵)を個別に取り上げて検討することのみ」では、上記「判断枠組みを採っていない」、「判断枠組みに基づく審理を尽くさなかった違法がある」といわれても、原審・東京高裁としては、困惑するのではないか。
 つまり、上記最高裁判決においては、原審・東京高裁が「考慮すべき事情」のうちの何を考慮していないのか?を明示していないのであって、われわれ法律家からみると、最高裁は、要するに、「頭ごなしに」「原審・東京高裁の結論では、世間が納得しないから考え直せ」という、「結論ありき」の判断を示しているようにしか見えないのである。

以上のとおり、最高裁の結論は誤っていないので、最高裁を批判するつもりは毛頭ないが、最高裁の「判断枠組み」と東京高裁の「判断枠組み」との間に、いかほどの違いがあるのか理解に苦しむものであり、破棄された東京高裁としても、内心、割り切れない思いを抱いたのではないだろうか。

ここで思い出されるのが、石川義夫著「思い出すまま」に出てくる、中村治朗・前最高裁判事に関するエピソードである。著者の石川元判事が、東京高裁で、中村判事の陪席を務めてみえたとき、書記官が中村判事(部総括)に向かって「裁判長、裁判て何ですか?」と問いかけたに対し、中村判事はただちに「裁判は常識だよ」と答えたところ、次にその書記官が石川判事に向かって「裁判って何だ?」と聞いてきたので、石川判事が「裁判は論理です」と言った。そして、その翌日、中村判事が考え込んだ様子で石川判事に「裁判はやっぱり論理だね」と言われたという。
 だが、中村判事がもし生きてみえて、今回の最高裁判決を読めば、「裁判はやっぱり常識だね」と、ご見解を「三転」せざるを得ないのではなかろうか。