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円空が「位山」(飛騨)で遺した事跡

 

位山(くらいやま)は、高山市一宮町(北側)と下呂市荻原町(南側)に跨がる飛騨の山である。その東側には、乗鞍岳と御嶽山、西側には、白山が聳える。いずれも、修験僧・円空の修行の場であった、と考えられる。
 円空は、位山の南側にある、位山八幡神社(萩原町山之口)に、異形の円空仏を遺している。

左が、歓喜天で、右2体が、烏天狗(迦楼羅)である(小竹隆夫著『南飛騨の円空佛』昭和56年)。

 

それとともに、円空が高賀神社に遺した歌集には、うち13首「位山」が詠み込まれている。以下では、この13首の歌意について、私見を述べる。誤解等があれば、ご教示賜りたい。
 

袈裟の山 位山に降る雨は 御法(みのり)の水のます鏡かな
[原文]けさの山くろふの山ニ降雨ハ御法の水のます鏡かな[26]

[校注]ます鏡」は「(水かさが)増す」と「真澄鏡」(くもりもなく澄み切っている鏡)との掛詞
[歌意]袈裟山と位山に降る雨は、仏法=神を映しだす水鏡の水嵩を増すとともに、澄み切った鏡と同化しています。

 

(われ)来つる 方(かた)もしらざる位山(くろうやま)
 けさの木の葉の散(ちる)とまが(紛)ふと
[原文]我きつるかたもしらさるくらふ山けさの木のはの散とまかふと[73]

[分析]「まがふ」は区別がつかなくなる、わからなくなる、の意で、古今和歌集349番の在原業平朝臣の歌「さくら花ちり(散り)かひくもれおいらくのこむといふなる道まか(紛)ふかに」(桜の花よ、散り乱れて、ここかしこの区別もつかないくらいに曇らせてくれ。老いがやってくるという道が、わからなくなるように、という歌意)が下敷になっているように思われる。「けさ」は「袈裟(山)」と「今朝」が掛けられていると思われる。
[解釈]袈裟山の秋には木の葉が舞い散って、道と紛れて分からなくなる程ですが、これと同じくらい、今朝の位山は、濃霧が立ちこめて、私が何処から山道を登ってきたのか分からないほどです。

 

墨(クロフ)山 塵も積もりて足ひきの 登々(とど)は峯(みね)ぞ住吉
[原文]墨(クロフ)山塵もツモリテ足ヒキノ登々ハ峯ソ住吉[226]

[分析]「塵も積もりて」は、「塵も積もりて山となる」の諺をもとに円空が着想した「墨山」=「位山」に掛かる枕詞で、「足ひきの」も同様に「墨山」=「位山」に掛かる枕詞と考えられる。「塵も積もりて」と「足ひきの」の両枕詞が相まって、登山が遅々として進まず、足が引きつったと言いたげなニュアンス(円空独特のユーモア)を感じさせる。
[歌意]やっとの思いで(クロフ=苦労して)登り詰めた位山の天辺は、快適な空間だ。

 

妙ヘならぬ位(くろう)の山に立(つ)(せん)は。阿耨菩提(あのくぼたい)のめぐみ(恵み)ましませ
[原文]妙ヘならぬくろふの山ニ立仙は。阿耨菩提のめくミましませ[235]

[分析]「妙へならぬ」(=霊妙でない)という否定的な修飾語の修飾対象が「(霊山である)位山」である訳がない。この語は、「(位山に立つ)仙」=仙人(=円空自身の比喩)に掛かる。つまり、円空は自分を仙人に見立てて、自嘲・揶揄しているのである。
[歌意]位山の頂上に立った私・僧円空(「仙」)は、霊妙ではありません。どうか位山の神様よ、僧円空に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という仏法最上の覚りをお恵みください。

 ※「阿耨多羅三藐三菩提」は、般若心経にも出てくるが、法華経でも頻出する専門用語で、植木雅俊先生は、「この上ない正しく完全な覚り」と訳しておられる(サンスクリット原典訳・上76頁、119頁、下104頁)

 

まどひきて位の山登らん心の暗(やみ)に予(よを)迷わすな
[原文]まどひキテ位の山登らん心の暗に予迷ワすな[289]

[歌意]心が迷い乱れてきたので、心を清浄に保つため、一心不乱に位山に登るとしよう。悪魔(マーラ)よ、心の暗闇にわれを惑わすな。
[備考]円空にも、「悪魔を祓う」という語彙はある[917-1]参照

 

目も見えず 己(おの)が心は暗(くら)ならて
 (くろう)の山の烟(けむり)くらへに
[原文]めモミへす己か心ハ暗ならて位(クロウノ)の山の烟くらへに[290]

[校注]「ならて」は、「ならで」という否定の意に解すると意味が通じなくなる(「目も見えず」と整合しなくなる。)ので、「なりて」の誤記と考える。「烟(けむり)くらへ(煙競べ)」は、《「思ひ」の「ひ」を「火」に掛けて、そこから立つ煙をくらべる意から》思いの深さをくらべる、との意をもつ古語である。
[歌意(解釈)]「愛は盲目」といいますが、私の心は、暗愚となり果て、位山で「煙競べ」をするかのように、自分でも分別がつかないほど、ある方を慕っています。

 

□払ふ 位の山の榊葉(さかきは)は 君が守りの神かとぞ思う
[原文]□払ふ位の山の榊ハは君か守りの神かとそおもふ[491]

[分析]冒頭の□は、虫に食われて文字不詳であるが、それに続く歌全体からすれば、厄とか悪魔といった、祈祷による駆除の対象となるモノを指す言葉があったと推定される。
[歌意]位山で採れた榊(神木)の葉は、厄除けになります。天皇の守護神と思えるほどに効果(験)てきめんです。

 

住み慣るる 位の[    ]世に在明の月[   ]
[原文]住なるゝ位の[    ]世に在明の月[   ][642]

[歌意]不明。円空は、位山にて、「住み慣れる」程度に滞在し、修行を重ねたことが窺われる。

 

小児(ちごの)(あし) 位の山の高ければ 
 登(のぼり)て通る夕暮の空
[原文]小児足位の山の高けれは登て通る夕暮の空[650]

[分析]「小児(ちごの)足(あし)」は、幼児の足取りを意味し、健脚のはずの自身の足を自嘲・揶揄しているものと考えられる。
[歌意]まるでヨチヨチ歩きだ。位山は、高い山なので、私の脚では、(朝から登り続けたのに)頂上近くにくると、既にあたりは夕暮れどきだ。

 

ちはやぶる此(この)神垣(かみがき)の内ならん
 位の山の法のとほしみ
[原文]千年振る此神かきの内ならん位の山の法のとほしミ[1340]

[校注]「千年振る」は神に掛かる枕詞。「神垣(かみがき)」は、神の鎮座する場所。
[歌意]位山は、神の鎮座まします霊山です。この胎内(洞窟)で修業を重ねている私ですが、修験道の道程(みちのり)は、なお遠いものがあります。

 

●位ふ山雲の上人(くものうえびと)結ぶらん
 玉の御木(みのき)は手にも触れつつ
[原文]位ふ山雲の上人結ふらん玉の御木ハ手にもふれつゝ[1354]

[校注]「雲の上人(くものうえびと)」は「宮中に仕える貴人の総称」であるが、ここでは、位山に降臨する神のことを指すものと考えれる。「結ぶ」の原義は、「形をなす」、「つなぎ合わせる」であるが、ここでは、天から位山に神が降臨してきたことを指すものと考える。
[歌意]位山の神様が、私がこの手で触れている、位山の神木(「玉の御木」)に降臨されてきました。大変有り難いことです。

 

(に)結ぶ 位ふ山の榊葉(さかきば)
 今日(けふ)とり染(そむ)る 玉かとぞみる
[原文]手結ふ位ふ山の榊葉ハ今日とり染る玉かとそミる[1400]

[歌意]位山の榊を神前に捧げるに当たって、手印を結び、祈りを込めました。この榊の葉こそ、今日の祈祷の儀式に際して、祈りを込めたことで神が宿った宝珠だと思って、つくづくと見入りました。

 

音にきく位の山の榊葉(さかきば)
 手にとる度(たび)に花かとぞ思ふ
[原文]音にきく位の山の榊はハ手ニとる度ニ花かとそおもふ[1407]

[歌意]評判の高い(名高い)位山の榊(神木)の葉は、手にとってみる都度、美しく咲いた花のようだと思う。