北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

「西行の和歌」にみる「西行の人生航路」

 円空の和歌を理解するには、『古今和歌集』及び『新古今和歌集』を理解しておくとともに、『新古今和歌集』での最高入選歌数を誇る中世の代表歌人であり、かつ、円空の同業者(僧侶)でもある西行の『山家集』の語彙と歌意をも理解しておく必要があると考えられた。
 そこで、先般、丸善で後藤重郎(名古屋大学名誉教授)校注『山家集』(新潮日本古典集成)を買ってみたのであるが、亡梅原猛先生の著書を読み返していたら、亡梅原先生も、「円空の歌集を西行の『山家集』とともに読んだ」と書かれていた(『歓喜する円空』319頁)。もとより浅学非才の私からみて、亡梅原先生の教養の深さは計り知れないが(曰く「円空が『袈裟山百歌』を千光寺に納めたのは、西行が『御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』や『宮河歌合(みやがわうたあわせ)』を伊勢神宮に奉納した例に倣ったものである」)、偶々、円空理解のための「目の付け処」については、共通していた。

 私が、上掲『山家集』(新潮日本古典集成)を購入した動機は上記のとおりなので、この書籍の購入時には気づかなかったが、偶々、本書籍の帯の裏側をみると、わずか17行×16字の短文で、「西行の和歌」とともに、「西行の人生航路」が簡潔に紹介されており、ちょっと感銘を受けた。

 

二十三歳の若さで出家したものの、西行は不安につつまれていた。

鈴鹿山 うき世をよそに ふり捨てて
いかになりゆく わが身なるらん
(憂き世を関係ないものとしてふり捨てて出家をした自分は、今こうして鈴鹿山を越えてゆくが、今後どのようになりゆく身であろうか。)

保元の乱に破れ、出家した崇徳院のもとを訪れ、

かかる世に かげも変らず すむ月を
見るわが身さへ 恨めしきかな
(いたましくも崇徳院が御出家になるようなこんな世の中が恨めしいばかりか、常に変わることのない光を放っている月が、そしてそれを見ているわが身までもが恨めしく思われるよ。)※すむ(住む・澄む)

五十歳になった西行は四国行脚の旅に出る。
弘法大師生誕の地・讃岐善通寺に庵を結ぶのだが、

ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば
松はひとりに ならんとすらん
(この地をもまた自分が住み憂く思って、心一所に留まらず旅に出たならば、松は独りになってしまうのだろうなあ。)

そして願いどおり、文治六年二月十六日、
七十三歳の生涯を閉じる。

願はくは 花のしたにて 春死なん
そのきさらぎの 望月の頃
(どうか、春の、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅なさった二月十五日頃に。)