北口雅章法律事務所

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自分(円空)の母親のことを「玉(たま)の女(むすめ)」というか?

「玉(たま)の女(むすめ)」とは、「美しい娘」という意味である。

幾度も(いくたびも)玉女(たまのむすめ)の形(かげ)移す 忘れ形見(わすれがたみ)の鏡(かがみ)成りけり
[原文]幾度も玉女の形移す忘記念の鏡成けり[712]

円空が詠んだ上掲和歌について、梅原猛先生は、「ここで円空が鏡を見て偲ぶ女性は母親であり(つまり、鏡=母の忘れ形見)、その母は玉のように美しい女性である。」と分析されているが(「歓喜する円空」340頁)、このような理解では、やはり違和感(マザコンではないか?)を否定できない。小島梯次先生(円空学会理事長)も、ここで「『玉女』とは誰を指すのか解らないが、『母親』とは思えない」と書いておられる(「円空・人」134頁)。
 したがって、ここでいう「忘れ形見」は、「忘れないためにあとに残しておく記念の品」の意ではなくて、実は、「親の死後に残された子。遺児。」の意であって、[歌意]としては、「母親に先立たれた、美しい娘(=「忘れ形見」)が何度も、ご自身の顔(=「玉女の形(かげ・容姿)」)を映し出している鏡なのね。」という解釈が成立するのではないか?、と一旦は考えた。
 だが、このような解釈は正しくなく、やはり梅原先生の解釈が正しいようだ。その理由は、上掲[歌集712]の歌に続く、[歌集713]の歌との整合性にある。

 

手に結(むす)ぶ 見る面影(おもかげ)は、親に似て 小児心(こどもごころ)に懐(なつか)しむ哉(かな)
[原文]手結ふミる面影ハ親にて小児心に懐哉[713]

この歌は、紀貫之の「手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの世にこそありけれ」(手にすくい上げた水に映っている月の影のように、この世は、あるかなきかといった、はかないものだ)を下敷にしているように思われるが、[歌意]としては、「(自分の)手で掬(すく)った水の水鏡に映しだされた自分(円空)の顔には、母の面影がある。子供心に、母を懐かしく思ったことだ。」という意味であろう。上掲[713]の歌が、このように理解されるとすれば、その直前の[712]の歌に出てくる「鏡に映し出された顔」で思い出されるのは、やはり「母親の顔」ということになろう。