北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

「円空の和歌」の解読 その2

 前回(その1)に引き続いて、関市洞戸円空記念館の解説冊子で取り上げられている「円空の和歌」について、解読を試みる。「法律家としての癖」というか、「私の癖」で、疑問に思ったことは突き詰めて考えるので、どうしても他者の論稿・解説、特に趣旨が不明確な論稿・解説については、批判的に読んでしまうところがある。ブログ読者には、この旨ご理解いただきたい。

 

しのぶらん 濁(にごり)に染ぬ(そまぬ)
 (はちすは)の 八重九重(やえここのえ)
 神の台(うてな)

[原文]しのぶらん 濁ニ染ぬ 荷はの
   八重九重の 神の台か[345]

[分析]下の句の「八重九重(やえここのえ)の神の台(うてな)」とは、如来・観音菩薩が鎮座する「蓮華座」のことを指していると考えられ、上の句の「しのぶらん 濁(にごり)に染ぬ(そまぬ)」の方は、蓮華座のモチーフとなっている「蓮(はす)」の性格、つまり、「濁(にごり)」(=汚穢;おわい)に交じらない;清浄な性質を指しているものと考えられる。

[歌意]仏様が鎮座まします蓮華座の蓮華(れんげ)は、茎や葉が泥と交わらないにように、つまり、汚れや煩悩に侵されないように忍んで(忍辱[にんにく]の業を積んで)、悟りに至った仏様の有り様を示すものなのですね

[備考]ちなみに、円空記念館の解説は、私の理解とはまったく違う。曰く蓮の花は、汚いものの多い、つまり養分の多い田でないと、あの清純な花を咲かせることはできません。私たち人間も苦しさに耐えてこそ、人生で大輪の花を咲かせることができます。円空は八重九重の神の台(蓮台)に乗ることが出来る時、すなわち、極楽浄土に生まれる時を思えば、この世の苦労こそ、その種と忍んだのでしょう」
 しかし、上掲解釈によれば、蓮は「汚いもの(養分)」を吸収して花を咲かせるというのであるから、「染ぬ(そまぬ)」という第2句の語義に反すると思われる。また、「しのぶらん」という初句は、2句の「濁に染ぬ」ように耐え忍ぶと歌っているのであって、「人生の苦労全般」に耐え忍ぶなどとは歌っていない。以上から、上掲解説の理解には賛同できない。

[追記]本和歌の「濁ニ染ぬ 荷はの」は、僧正遍昭の「蓮葉(はちすは)の にごりにしまぬ 心もて 何かは露を 玉とあざむく([歌意]蓮の葉は、泥の中から生い育ちながら少しも濁りに染まらない、そんな清らかな心を持っているのに、どうしてその上に置くただの水を玉のように見せて、人をあざむくのだろう)」(古今和歌集165)を下敷きにしていると考えられる。

 

ちわやふる 峯(みね)や深山(みやま)の草木にも
 有あふ杉に 御形(みかげ)移さん

[原文]ちわやふる 峯や深山の 草木ニも
  有あふ杉に 御形移さん[559]

[分析]「ちわやふる」は、神に掛かる枕詞であり、山岳信仰をもつ円空においては、「峯(みね)や深山(みやま)」にも神が宿り、「峯や深山」に掛かる枕詞でもある。しかし、この和歌では、「草木にも」と詠まれているので、「ちわやふる」は「草木にも」にも掛かっており、草木にも「神性(=仏性)」があると詠まれていることになる。ここで想い起こされるのが、天台宗の独自性である。円空が天台寺門宗の修験僧であったことは疑う余地がないが、天台宗以外の宗派が仏性を認める範囲は、生き物・動物の世界(「衆生世間」)までであるのに対し、独り天台宗だけは、草木も国土(自然界)までもが、救済の対象となり成仏する、つまり仏性をもつ(「草木国土悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」)とされている(中村元「原始仏典を読む」岩波セミナーブックス10参照)。梅原猛先生も、円空の本和歌には、天台宗系僧侶としての宗教思想が詠み込まれているものと理解されている(『歓喜する円空』341頁)。
「有りあふ」とは、たまたまその場で見つけた、あり合わせの、という意である。

[歌意]高い山や、深山の草木にも、神性が遍在しています。近くで見つけた杉の木を素材として、神仏像を造顕し、開眼させるとしましょう。

[備考]円空記念館の解説では、「神さまの住む、深山の草木の中ので、神さまの御影を、その辺にある杉の木に彫ってうつす、造顕しようという意味でしょう」と書かれているが、天台宗の「草木国土悉皆成仏」論には言及されていない。

 

(あまねく)も 心の月を 詠(ながむ)れば
なべて浮世を 覆(おお)うものかな

[原文]普も 心の月を 詠れは 
     なへて浮世を 覆物哉[646]

[分析]ながむ;詩歌を読む)」は、「ながむ;遠くを見通す)」と掛け言葉となっている。「普(あまねく)も」は、「全体的にすみずみまで」という意味で、「詠=眺」の対象、つまり、「心の月」が照射する対象の性質(=遍在)を示しており、「なべて浮世を」に対応する。「覆(おお)う」とは、(心の月光が)被さる=(月光に)照らされる、の意と思われる。

[歌意(解釈)]心の月を思い浮かべ、月輪観の瞑想にふけっていると、月が光が、浮世全体を照らすように、月=仏の慈悲が遍在していることに思い至ります(そのように悟ることができました)。

[備考]円空記念館の説明によれば、この和歌の[歌意]は、「仏の道を正しく学んだ人は覆うものなど何もない空に浮かぶ満月のような心になれるというのです」とのことである。しかし、このように「仏の道を正しく学んだ人は」というように適用範囲を狭く限定してしまうと、「普(あまねく)も」とか「なへて浮世を」といった語義に反することとなって、賛同できない。「空に浮かぶ満月のような心」というのも、意味不明である。「覆う」についても、この和歌では、「包み隠す」とか「(光を)遮(さえぎ)る」というような意味では用いられていないように思われる。