北口雅章法律事務所

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何故,「西田幾多郎」は理解できないのか?

第1.娘に対する「哲学講義」(?)

久しぶりに金沢にて下宿している娘から,
SOSの連絡があった。
「教養科目の『哲学』で,
 西田幾多郎の『善の研究』『第一編 純粋経験』の
 要約とコメントを××××字前後でレポートするよう
 宿題が出たが,読んでも,さっぱり解らない。
 困った,困った。」とのこと。

西田幾多郎先生の「善の研究」など,
哲学を囓ったこともない,門外漢の大学生が解るような代物ではない。
いくら西田先生が金沢出身・旧制四高教授だったとはいえ,
いきなり「純粋経験」というのは無茶ではないか?
いまどきの大学教授は何を学生に求めているのか?
とも思うが,

よくよく聞くと,
「ソクラテスの弁明」(プラトン)との選択が認められていたというが,
難易度の違いを知らずに,「善の研究」の方を選択してしまった,とのこと。
「善の研究」を選択した場合でも,
「第一編 純粋経験」
「第二編 実在」
「第三編 善」
「第四編 宗教」
の中の,いずれの編でもよいから1編だけを選べばよろしい,とのことであったが,
娘は,西田先生が「善の研究」の「序」文で,
「第一編は余の思想の根底である純粋経験の性質を明(あきらか)にしたものであるが,
 初めて読む人はこれを略する方がよい。」と
わざわざ「注意書き」を書いてくれているのに,これをすっ飛ばして,
いきなり「第一編 純粋経験」から読み始めてしまったので,
「今更,第二編以下を読む,気力も,時間的余裕もない。」という。

娘の「要領の悪さ」は,「父親譲り」で,

父親よりも悲しいほどの非道さだ。

 

WADASUも大学生時代に「挑戦」してはみたものの,
「解らなかった」という「印象」だけが残る「善の研究」のうち,
「第一編 純粋経験」を再読したうえで,
娘を諭すことにした。

わが「我流・哲学講義」の骨子は,次の3点。

1.西田哲学の「純粋経験」に関する根本命題は,

 「感覚や知覚がこれ(純粋経験)に属することは誰も異論はあるまい(が),
  余は,凡(すべ)ての精神現象がこの形(純粋経験の形)において
  現れるものであると信ずる。」(岩波文庫・改訂版18頁)
   
    というものである。
   
    したがって,第一編「第二章」の「思惟」も,
    精神現象である以上,その根本に「純粋経験」があり,
    同「第三章」の「意志」という精神現象もしかり,
    同「第四章」の「知的直観」もしかりである。
    全ての精神現象が「純粋経験」から派生する形態のように考えられていること,
    この中核部分を踏み外すと,ズレた理解になる(ような気がする)。

2.西田哲学の本旨を厳密な意味で理解することは,
  少なくとも,哲学の初心者には不可能である。

  父曰く「例えば,35頁を見よ。『意志の本に理性が潜んで居るといえると思う。』
    との表現が出てくる。何気ない表現だが,この『理性』という言葉の本義を
    理解するには,カントを読んでいないとわからない。だからといって,娘よ。
    今更,カントの『純粋理性批判』や,『実践理性批判』など読んでいるヒマ
    などなかろう。ただ,『理性』という言葉の感覚的な意味だけは解説しておこう。
    『理性』は,Vernunft(独語)の翻訳だが,ドイツ人にとっては,日常用語だ。
    親は,悪さをした子どもを『Vernunft !』(理性を出しなさい!)
    と言って叱る。つまり,理非弁別の判断の基礎にある道徳観念のようなもの
    が『理性』だという前提で読み飛ばしていいと思う。
     それに,46頁を見よ。
    『…真理を知るというのは大なる自己に従うのである。
     大なる自己の実現である(ヘーゲルのいった様に,凡ての学問の目的は,
     精神が天地間の万物において己(おのれ)自身を知るにあるのである)。』
    との表現があろう。
    ここから何が読み取れるか,というと,
    西田哲学の『純粋経験』というのは,ヘーゲルの『精神現象学』を意識している
    ことは明らかであって,『現象』的な展開を予感させる概念である。
    つまり,『純粋経験』なんてな言葉のもつイメージを,いくら膨らませてもダメで,
    ヘーゲルを理解していないと理解できないのではないか,と思われる。」と。
   
3.だから,西田哲学は,西洋哲学史の素養がない大学生が,
  わからなくても,当然であって,
  さらに西田哲学の理解を不可能にする事情がある。

    それは,やや言い過ぎかもしれないが,
    西田哲学は,「本来的な意味での」「学問」ではない!,ということなんだな。
   
    「学問」というのは,何らかの意味で,客観的・理論的に「実証」できるような
    「普遍性」がないと「学問」とは認められないのではないか。
    ところが,西田哲学の命題は,全て「信念」,「信仰」に支えられているのであって,
    いくらご本人が「私は,コレコレと信ずる」と言ってみたところで,
    端から「私は,そのようには思いませんが。」と言われてしまえば,それまでの
    ことではないか,という気がする。
    例えば,先に引用した「純粋経験」に関する彼の命題でも,
    「余は,…この形(純粋経験の形)において…と信ずる」というように,
    主観的な「信念」の表明で終わっている。
    「善の研究」第一編の末尾を見よ。
    「学問道徳の本には宗教がなければならぬ。
     学問道徳はこれに由りて成立するのである。」とある。
    宗教=信仰が,彼の「学問」の根底にあることを「告白」しているではないか。
    父さんが習った哲学の教授(井上忠)は,『哲学』と『思想』を峻別したが,
    同教授によれば,西田哲学は,本来の『哲学』ではなく,『思想』に分類される
    ことになる。」と。
   
 以上要するに,西田哲学の根本原理である「純粋経験」など,
 解らなくて当たり前であって,要約において,中核的な要点を外さなければ,
 大学生レベルでは合格点はつくであろう。
 無理に解ろうとせず,「解らない」理由を自分なりに考えて,
 それをレポートするだけで十分ではないか,と諭した。

 

第2.「夏目漱石と西田幾多郎」を読んで

 「娘の期待に沿う回答はできなかったのかもしれない…」
 「所詮,専門外だから,しゃーない」
 といった自虐心(?)が心底に潜在していた状態で,
 本屋をふらつくと,

 何故か,無意識に,

 小林敏明著「夏目漱石と西田幾多郎―共鳴する明治の精神」(岩波新書)

 が置かれているのが目に入る。

 手に取ると,「2017年6月20日 第1刷発行」とある。
 まるで,本の方が,
 「これを読んで,もっと教養を身につけよ。」
 と語りかけてきているような気がした。

 それで,早速,買ってみて,読んだ。

 「明治の精神」を代表する夏目漱石と,西田幾多郎が,
 単に時代背景・「時代の空気」を共有していたにとどまらず,
 家族関係・学友(人的ネットワーク)・師弟関係・精神生活等
 あらゆる面で共通の要素があり,深いところで共鳴しあっていることを知り,
 非常に感銘を受けたし,面白かった。

 それとともに,WADASUが,この本に対し,
 無意識に期待したことも十分に書かれてあった。
 そう,この本は,格好の「漱石」の入門書であると同時に,
 「西田哲学」の入門書としての機能も十分に持ち合わせているような気がした。

 
 つまり,「西田哲学」が難解である由縁のものについて,
 この本を読んで,さらに理解が深まったような気がする。

 

西田哲学が難解がある理由として,WADASUが娘に説いたことは,
大きくは外れていなかったが,専門家の著述は,
より的を得たことが書かれてあるように思えた。
わがブログでは,二つのことを紹介しておきたい。    

1.公案との格闘

 漱石が,円覚寺での参禅体験を基礎に,
『夢十夜』「第二夜」や,『門』等の作品を著したことはよく知られているが,
 それほど長く参禅していたわけではない。

 これに対し,西田先生の方の参禅体験は,かなり本格的なもので,
公案との格闘体験が,西田哲学に色濃く投影されているように思われた。

 西田先生が最も時間をかけて格闘したのは「無字の公案」だという。
 ある僧が,趙州和尚に対し,
 「狛(犬)にも仏性(ぶっしょう)がありますか。」
 と問うと,趙州和尚は,「無い」と答えた。
 趙州和尚が「無い」と回答した理由を考えよ,というのが公案の課題である。

 仏教の思想からすれば,犬畜生にも仏性があるとされている。
 禅宗ではないが,弘法大師・空海も,
 「蚑行蝡動(きかうぜんどう)何ぞ仏性なからん」
(ムカデなどの這い動く虫も,ウジ虫などのうごめく虫も,仏性のないものはない)
(「藤(とう)中納言大使のための願文」『性霊集』所収)
 と述べている。
 したがって,趙州和尚が「犬には仏性がない」と言えば,
少なくとも,言葉の上では,仏教思想と矛盾するが,この回答が,
何故,矛盾しないのか,その理由を考え続けるのが
「無字の公案」の課題である。

 そして,「犬には仏性」が「有る」ことが絶対的真理である,
という仏教思想を前提とする限り,
「無字の公案」で趙州和尚が,「犬には仏性」が「無い」
という場合の「無」は,単なる「有の否定」としての「無」では
 ありえず,有・無の対立の次元を超克した「真の無」だという
 ことになる。

 そして,このような「無字の公案」の思想なり結論が,
 「有を否定し有に対立する無が『真の無』ではなく,
  『真の無』は,有の背景を成すものでなければならぬ。」
 という西田哲学と照応する,というのが,
 本著者・小林敏明氏の理解だ。

 そして,「有と無とを包むもの」として,
 「有の背景を成すもの」として存在する『真の無』に呼応して,
 「主と客とを包むもの」として,
  全ての精神現象の背景に現れるものとして措定されているのが,
 「善の研究」の冒頭に出てくる『純粋経験』ではないのか?
 というのが,WADASUの解釈だ。
 となれば,西田哲学の理解のためには,
 禅の公案に関する思索との関係を考慮に入れなければ,
 『真の理解』は得られないのではないか。

 

2.「矛盾する論理」「論理ではない論理」「奇怪な文体」

 難解かつ奇怪な西田哲学の,難解である由縁を説いた,
 本著者・小林敏明氏の指摘は的確だ。

 「著作というのは,普通は一般ないし特定の読者を想定して,
  その合意を期待しながら書き進められるものであり,
  いわば『理解』の共有が前提とされている。
  だが,西田にはまさにその暗黙の合意が欠落しているのである。
  だから,西田はその欠落を補うために,やはり繰り返し
  『なければならない』を連発して,
  自分に言い聞かせねばならないのだ。」(207頁)

  WADASUの言葉でいわせていただくと,「信仰の独白」である。

  そして,小林敏明氏が上記著書で引用する,
  小林秀雄の西田哲学に対する評価も,
  なかなか手厳しく,的を得ている。

  曰く「…神様だけが知っている。
   この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が,
   氏の奇怪なシステム,日本語では書かれて居らず,
   勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステムを
   創り上げて了(しま)った」(「学者と官僚」)(212頁) 

   「他人というものの抵抗」を無視した思索を理解しようとすること
    に意義を見いだすのが,「哲学」であり,
    時間の無駄と考えるのが,WADASUのような「凡人」
    の健全な「常識的感覚」ではないであろうか。

 

 追記(平成28年8月23日)

 高校時代の現代国語の授業で使われてた教科書に,
小林秀雄「無常という事」と題するエッセイが掲載されていた。
全体が難解なエッセイであるが,
高校生ながら,当時,特に難解だと思ったフレーズに,
「過去から未来に向かって
 飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想」
というのがあった。
 クラス担任(H先生)が,国語の教諭だったが,
H先生に聞いても,どうせ解らない答えが返ってくるに違いないと思い,
授業中も授業後も,H先生に対し質問は敢えてしなかった。

今日,そのフレーズのことが気になって,上記エッセイが収録されている
文庫本―「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)を購入し,改めて読み返した。

「…思い出が,僕らを一種の動物である事から救うのだ。
 記憶するだけではいけないのだろう。
 思い出さなければいけないのだろう。
 多くの歴史家が,一種の動物に止まるのは,頭を記憶で一杯にしているので,
 心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。
  上手に思い出す事は非常に難しい。だが,それが,
 過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という
 蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)
 から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。…」

  以上が,高校時代に頭を悩ましたフレーズを含む原文からの引用である。

 私の直感は,次のとおりだ。
 小林秀雄が,上記エッセイの中で,「過去から未来に向かって
 飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想」
というフレーズを書き出したときに,彼の念頭にあったのは,

西田哲学ではなかったか?

「…過去は現在に於て過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり,
 未来は未だ来らざるものであるが現在に於て既に現れて居るものであり,
 現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し,時というものが成立するのである。
 而してそれが矛盾的自己同一なるが故に,時は過去から未来へ,
 作られたものから作るものへと,無限に動いていくのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。…」(「絶対的矛盾的自己同一」)

 このように考えると,

「…飴(あめ)の様に延びた時間という蒼(あお)ざめた思想」について,

小林秀雄が,「(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)」と考えた趣旨が,

実によく理解できるではないか,と思われるだが・・・。