北口雅章法律事務所

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尾張徳川ゆかりの相應寺にて、法要

今日(令和5年7月30日)は、亡父・七回忌の法要。相応寺の住職に頼んで、本堂で行った。炎天下であり、この御時世なので、ごくごく内輪で営むことにした。相應寺の現住職の年齢は聞いていないが、直感的には、多分、私より年下だと思う。

 

早いもので、はや7年。平成29年に死去したことになるらしい。

相應寺は、初代尾張藩主・徳川義直公の母・お亀の方の菩提寺
「田舎ではあるが、都会」の名古屋市内でありながら、小高い丘の上に本堂がある。

控え室で全員そろったところで、回廊をあがって、本堂に登っていくのであるが、ちらほら尾張徳川ゆかりの文化財が目に付く。仏像などは撮すわけにいかないので、差し支えなさそうな範囲で記念撮影。

 

改修後の控え室・欄干にも、若干の配慮が…

 

法要の後、尾張徳川の歴史マンガ・シリーズ《第2巻》が置いてあったので、約4冊購入。その場、法要にご参加いただいた親族にお配りした。表紙を開くと、住職のサインと寺紋が付されている。

 

第2巻の物語は、1615年(慶長20年)、義直公(当時16歳)と、春姫(当時13歳)との婚姻から始まり、1650年(慶安3年)、死去して、二代藩主・光友公に引き継がれるところまで(義直公の遺体は、江戸屋敷から、一旦、旧相應寺に運ばれて「万部読経」が行われた後、遺言によって、定光寺にて埋葬されたという。)。春姫の実家は、紀州和歌山の「浅野」家

 

ちなみに、父の死去に際して、私が建てたわが家の墓のある平和公園には、赤穂浪士の一人・片岡源五右衛門の墓もある。何故だろうか?と思っていたが、片岡源五右衛門の実家・熊井家も、春姫につき従うように名古屋入りしたらしい(ということが、この本に書いてあった。)。それでもよく分からないので、念のため、ウィキペディアで調べると、片岡源五右衛門は、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次の長男として名古屋に生まれたが、生母が側室であったため、正室の子が生まれると、嫡男たる地位を奪われ、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門の養子となった。片岡源五右衛門に対する浅野内匠頭のおぼえは、すこぶるめでたく(同年齢の小姓)、同性愛関係にあったとの説もあるとか。

 

旧相應寺は、昭和7年(1932)、現在の場所に移設されたが、その後、太平洋戦争、伊勢湾台風等で、ダメージを受けたとのこと。