北口雅章法律事務所

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「信長のパワハラ」と「家康のパワハラ」

先日、静岡出張に際して、JR静岡駅で購入した城島明彦著「家康の決断」を読んだ。本書は、家康の人生航路を、六つの章に分け、史実に沿って紹介している。自然、今川義元・織田信長・豊臣秀吉との関係性が主軸となるが、「第1章 波瀾の10代」(人質時代)、「第2章 自立の20代」(信長との軍事同盟の樹立期)、「第3章 苦難の30代」(この時期、正室・嫡男を殺害させ、「三方ヶ原の戦い」で挫折を経験する)、「第4章 危機管理の40代」(本能寺の変から秀吉の天下統一まで)、「第5章 大勝負の時代」(朝鮮出兵の回避と、関ヶ原の戦い)、「第6章 完璧の60代・70代」(大阪城攻略と江戸幕府の構築)といった、年代ごとに、家康の事跡と人間模様のエッセンスが、分かりやすくまとめられている。
(家康に興味があったわけではないが、「円空の人生行路」を自分流に描く際の参考にしたい、との思いから通読した次第)

NHKの大河ドラマ「どうする家康」は見ていないが、NHKの大河ドラマ(海音寺潮五郎原作「天と地と」、司馬遼太郎原作「国盗り物語」等)で育った世代。戦国時代の主な合戦は頭に入っているつもりであるが、上掲「家康の決断」を読むと、時代の背景や人間模様について、われながら理解が深まった。

印象に残ったエピソードは、「信長のパワハラ」と「家康のパワハラ」の各2件。どちらも凄まじいが、「凄まじさ」の程度という点では、「信長のパワハラ」の方が抜きん出ている。

「信長のパワハラ」その1:家康に対するパワハラ

 家康の正室「築山殿」(姑)の「嫁いびり」が凄まじかった。その嫁とは、家康の嫡男「信康」の正室にして、信長の長女「徳姫」(但し、母親は信長の正室「濃姫」ではなく、側室「吉乃」)。家康(当時29歳)は、岡崎城を嫡男「信康」に譲り、自身は、正室「築山殿」を同伴せずに、何人もの側室を連れ立って浜松城に移住し、子作りに励んだ。家康に対する「築山殿」の恨み辛み・嫉妬のはけ口が「嫁いびり」となる(築山殿を一番怒らせたのは、築山殿の女中・お万の方を側室にして、次男・秀康を生ませたことだった、とのこと)。その露骨な嫌がらせとして、嫡男「信康」に美貌の側室をあてたらしい。
 かくて、徳姫は、父信長に対し、「義母・築山殿と夫・信康」の背信的行為(武田との関係疑惑)を十二箇条にまとめた訴状をもって、通告。
 信長から、盟友・家康に対し、「正室・築山殿と嫡男・信康」の処刑命令がくだった。
 現代風にいえば、「常軌を逸したパワハラ」であろう。
 だが、家康は、この指令に従った。

 

「信長のパワハラ」その2:明智光秀に対するパワハラ

1582年(天正10年)、信長は、安土城を尋ねてきた家康を接待したが、その際、家康の饗応に出す予定の生魚が腐臭を発していたため、信長の怒りが爆発し、光秀が、その饗応役を解任された。その直後、当時、毛利の軍勢と戦闘状態にあった秀吉から、信長に対し援軍の要請があった。これに対し、信長は、配下の軍勢を秀吉の援軍として出陣させることにしたが、光秀だけは、その領国(南近江と丹波)を召し上げた上で、「毛利の所領である石見と出雲を与える」とした。
 家康の饗応役解任と、領国の召し上げが、本能寺の変の動機となったとされているようだが、現代風にいえば、この二つの不利益処分は、信長の光秀に対する「パワハラ」というべきであろう。
 

 

「家康のパワハラ」その1:野中重政に対するパワハラ

家康は、上記理由のもと、信長から「正室・築山殿と嫡男・信康」の処刑命令を受けると、築山殿に対し、浜松城に来るように呼び出し、その途上で、三名の家臣に対し、築山殿の処刑を命じたようだ。ところが、実際に手をくだした野中重政が、家康に処刑を報告すると、
家康は、「空気読めよ。尼にするなど、殺す以外の方法があったろう。考えが浅い。」などと言って、野中をたしなめたらしい。
 これは、自己矛盾=八つ当たりのトバッチリ、現代風にいえば、パワハラだろう。
 その後、野中は精神的にショックを受けて、ただちに蟄居(引きこもり)したらしい。

 

「家康のパワハラ」その2:大久保忠世に対するパワハラ

家康は、上記理由のもと、信長から「正室・築山殿と嫡男・信康」の処刑命令を受けると、長男・信康に対しては、二俣城での切腹を命じた。
これに先立ち、大久保忠世が、徳姫の十二箇条の訴状を紙に書き出し、これを理由に、信長の上記処刑命令がくだった旨を家康に報告している。その際、家康は、大久保長世に対し、何故、こうなる前に、信康を注意し諫言・諫止してくれなかったかと言って、歎いたという。
その後、家康が、大久保忠世と幸若舞「満仲」(源満仲が、我が息子の殺害を家臣に命じたとき、その家臣は、自分の息子の首を斬って、主君に差し出したというストーリー)を見た際、ハラハラと涙を流して、「満仲の舞を、長世は直視できまい。」と嫌みを言ったらしい。
 これとて、現代風にいえば、パワハラだ。
 大久保忠世は、何もいえず、それ以後、自宅に引きこもりっきりになった、とのこと。