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円空美術館所蔵の不動産三尊の造顕時期・場所

円空美術館(岐阜市大宮町)で展示されている不動三尊は、円空が、いつ頃、何処で造顕した像か

■円空美術館蔵・不動三尊

 

小島理事長によれば、上掲・不動三尊は、福岡県飯塚市の個人が、寄蔵された像とのことのようである(円空仏入門89頁)。しかしながら、円空には、九州地区を巡錫した事跡は認められない(吉田次郎氏「九州の円空仏を探す旅」『円空学会だより』第100号でも、その事跡は一つも見つからなかった、とのこと。)。

円空の神仏像は、儀軌(ぎき、定型・伝統様式)にとらわれず、独自の感性に基づいて、融通無碍に変容するので、何が本則・原点かを捕捉するのに苦慮する。しかしながら、不動三尊の原型は、やはり、中央・本尊に、通常の不動明王(歯牙が上下、右手に宝剣、左手に羂索=縄、岩座)を据え、右脇侍(右陪席)として、金剛棒を正面中央にもつ制託迦童子、左脇侍(左陪席)として、僧形の矜羯羅童子が胸元で合掌する、といったポーズ(形態)であろう。不動明王については、坐像と立像の両方がありうる。

 

■西福院蔵・不動明王坐像(埼玉県・越谷市)

 

■禅通寺蔵・不動明王立像(岐阜県高山市・上宝村)

 

ところが、一方、この原型から逸脱して、制託迦童子の金剛棒を右脇下の「杖」の如くに位置を換え、矜羯羅童子の右手掌を顔横にあげたポーズを取らせているのが、清瀧寺(栃木県日光市)の不動三尊である。

■清瀧寺・不動明王三尊(栃木県日光市)

 

この点、前掲・円空美術館蔵の不動三尊は、矜羯羅童子が、右手掌を顔横にあげたポーズをとっている点で、清瀧寺の矜羯羅童子と同じである(制託迦童子の方は原型にとどめている。)。そして、矜羯羅童子のこのようなポーズは、関東方面で特徴的なポーズであり(埼玉県蓮田市に遺された個人蔵にも、手が左右逆であるが同様の像がある。)、円空は、実は、前掲・円空美術館蔵の不動三尊に酷似する三尊像を埼玉県北部の幸手市内の個人宅にも遺している。

 

 

■個人蔵(埼玉県幸手市)

 

 このように考えると、前掲・円空美術館蔵の不動三尊は、円空が関東方面での巡錫に際して、小渕観音院(埼玉県春日部市)や、薬王寺(さいたま市貝沼区)等で造顕活動を行った後、北上して日光方面に向かう途上、延宝九年(1681)頃から天和二年(1682)頃のまでの間、埼玉県北部に在住する個人のために造顕したもので、この不動三尊は、その保管者の後継者の引越等に伴って、一時期、福岡県飯塚市に運ばれた後、円空の出身地である岐阜県の美術館に寄蔵された、と考えるのが合理的である。