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井上観音堂所蔵・円空作「十一面観音三尊」の造顕時期について

昭和62年1月1日発行の「円空だより」(新年号)に、井ノ上観音堂(岐阜県美濃加茂市)にて、十一面観音三尊像が「新発見」されたという記事(下掲)が掲載されている。今から、35年以上も昔のことだ。円空仏が「新発見」されるのには理由がある。いうまでもないが、明治政府の「廃仏毀釈」政策のため、多くの円空仏が破壊される一方で、信者らによって社屋の奥隅等に封印・隠匿され、文字通り「お蔵入り」となったまま、忘れ去られてしまった円空仏が少なからず存在するからであろう。

 

さて、上掲・本三尊の造顕時期は、どの時期と考えられるであろうか。

「円空仏入門」(小島梯次著)によれば、本三尊は、「集落の人達が共同で味噌を作っていた」お堂に祀られていた本尊とのことで、写真入りで紹介されているが、造顕時期については、言及されていない。

思うに、美濃加茂市(岐阜県)と聞いて、円空ファンが真っ先に思い浮かべるのは、円空が美濃加茂市下廿屋の個人宅に遺し、かつ、寛文11年(1671)三月(円空当時40歳)の背銘がある、馬頭観音であろう。

この馬頭観音の優美な容貌(多分、モデルがいたと思われる。)と、本尊像の中尊である十一面観音の容貌の優美さを比較対照すると、あるいは同じ時期に造顕されたのかな、と誰しも、一瞬は思う。

しかしながら、本三尊像の背銘をみると、その後頭部円空独自の宝印がある。

 

この宝印は、小島理事長によれば、円空が白山神からご託宣を受けた延宝7年(1679)以後に登場する宝印であることから、造顕時期は、これ以降と考えざるをえない(ただし、この宝印の意味については、「ウ・最勝の」の梵字であるというのが、円空学会の定説となっているが[前掲入門70頁等]、この定説について、愚弁において若干疑義をもっている。このことについては、また、別途ブログで論ずる予定。)。

また、本三尊像の構成は、十一面観音を中尊として、両脇侍に善女龍王と善財童子を配置するといった円空独自の三尊形式であり、この形成時期は、円空が三重県の志摩半島で、大般若経の修復作業に併行して、仏画を描き終えた延宝2年以降であるという卑見(『円空研究=34号』所収の拙稿)からも、本三尊像の造顕時期を寛文11年頃というのは、早すぎるということになる。

さて、小島説によれば、本三尊像の造顕時期は、延宝7年(1679)以後ということになるが、より具体的には、円空が関東方面で巡錫し造仏活動を行った後、貞享元年に高賀神社(岐阜県関市・洞戸村)にて若干落ち着くまでの間、すなわち千光寺に向かう前までの時期貞享元年説)か、桂峯寺付近の観音堂での今上天皇像の造顕(元禄3年)を経て、下呂方面に向かった後の時期元禄4年説)が最も考えやすいよう思われる。

しかして、私見は、後者である。

理由は単純明快。元禄4年頃、円空は、下呂(岐阜県下呂市)方面で造仏活動を行い、下呂市内の民家で、本三尊に酷似した三尊像を遺しており(下掲右)、両三尊の時期的・地理的な連続性を認めざるを得ないと思われるからである。