北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

円空は、何故、「弥勒菩薩」像を造顕しなかったのか?

広隆寺(京都太秦)や、慈尊院(高野山)には、今も弥勒菩薩像が遺る(いずれも国宝)。
だが、円空が造顕した弥勒菩薩像は、寡聞にして知らない。円空が再興した弥勒寺には、その名のとおり、弥勒菩薩像が本尊として祀られていたとのことであるが(大正時代に焼失)、その本尊は、行基作と伝えられており、円空作ではない。

 弥勒菩薩は、円空が信仰していた法華経にも登場する菩薩であり、円空が「弥勒信仰」をもっていたことは、円空作の有名な歌から明らかである。すなわち、円空は、三重県・片田地区で大般若経の修復作業をして以降、その大般若経や、荒子観音寺に遺した護法神像等の背面に次の歌を遺している。

幾度(いくたび)も、
タヘテモタルル法の道
九十六億末の世までも

[大意](末世の最後に弥勒菩薩が下生してきて)九六億の衆生が救済されるよう、何度も法難に耐え、仏法を護り抜くのだ。(九十六億の意味については、通説に従ったが、実際のところは、単に円空が五六億と書くべきところを九十六と誤記ないし勘違いしていたのではないだろうか。)
 
 ちなみに、上記第二句の「タヘテ」「絶えて」の意として、「仏教は絶えるけど、また復興する」と理解するのが通説的見解のようであるが(梅原猛「歓喜する円空」260頁、小島梯次「円空入門」54頁)、「タヘテ」は、正しくは「耐えて(持ち堪えて)」という意味ではないだろうか。弥勒信仰においては、曲がりなりにも「末法の世」が続くことが前提とされているのであるから。「弥勒信仰」とは、釈迦の入滅後、その教えが正しく伝わっている「正法の世」が五百年、次いで、その教えが形骸化する「像法の世」が千年続き、さらにその後に、仏法が衰え、人々の心が荒廃する「末法の世」が五十六億七千万年間も続いた後、弥勒菩薩がこの世に下生(げしょう)してきて、説法により人々を救済する、という信仰である。

 では、弥勒信仰をもつ円空が「未来仏」である弥勒菩薩を造顕しなかったのは何故か。

 正しくは、円空に聞かないと分からないが、需要と供給の両面から説明されるべきものと考えられる。
 まず、「需要」の面からすれば、当時、衆生(大衆)が求めたのは、現世利益と極楽浄土であって、菩薩業を実践する円空に造顕が求められた念持仏の一番人気は、観世音菩薩、すなわち聖観音であったから、敢えて弥勒菩薩が求められることはなかった、と考えられる。そして、「供給」の面からいえば、卑見によれば、円空が三重県の志摩半島で大般若経の修復作業を実施して以降、円空が信仰の対象とした像の理想型は、「十一面観音・善女竜王・善財童子」の三尊形式であった。ここに暗示されている思想は、円空にとって重要なのは、終着点(弥勒菩薩の下生)ではなく、それに至るまでの「過程」、すなわち、「護法」=「菩薩業」であり、華厳経によれば、「善財童子が五十五箇所・五十三人の善知識を訪問して教えを請い、それぞれの教えを身につけていく過程で、その終わり近くで弥勒菩薩が現れて、善財童子に対し成仏を予言していること」に照らしても、拝む対象としての弥勒菩薩像は必要とは考えていなかったことが窺われる。

 なお、修験道においては、その本尊は金剛蔵王権現で、弥勒菩薩は、その本地仏とされているが、円空が小渕観音院に遺した蔵王権現は、あくまで蔵王権現であって、弥勒菩薩とはいえまい。