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空海は、どのような方法で立体曼荼羅を造顕したか(上)

 

 東寺・講堂(京都)にて祀られている立体曼荼羅は、空海が構想・造顕したことは疑う余地がない。東寺(講堂等)創建に係る事項は、日本後記(正史)には記述が出てこないが、寺誌「東方記」等によれば、東寺は、延暦十五年(796)に創建に着手され、弘仁十四年(823)、嵯峨天皇が空海に「給預」され、天長二年(825)、空海自身が講堂の建立に着手したとされている。つまり、東寺の立体曼荼羅は、真言宗の宇宙観(大日如来が中心にある)を立体的に表現したもので、その構造・構成は、開祖=空海にしか知り得ない性格のものだからである。

 

立体曼荼羅の神仏の構成は、如来部大日如来プラス四如来)、その左側に菩薩部(五柱の菩薩)、如来部の左側(講堂入口から奥)に明王部不動明王プラス四明王)の合計十五柱の左右に梵天・帝釈天、そしてこれら十七柱を取り囲むように東西南北の各隅に四天王が配置されており、合計二十一柱からなる。

如来部の五柱以外は、全て国宝であるのに対し、何故、如来部の五柱だけが重要文化財にとどまっているのか?というと、どうやら如来部の五柱だけが土一揆(つちいっき)の標的とされて、破壊され、創建時の原型をとどめていない、というのが理由らしい。

では、各神仏像の像容も、すべて空海が構想したものであろうか。

明王部(不動明王プラス四明王)の五柱以外の像容は、大日如来を除き、当時既に東大寺や興福寺等に存在した如来・菩薩・四天王をモデルとして、仏師に作らせることは可能であったろう。だが、①こと「明王部(不動明王プラス四明王)」の各明王は、古代インドの宗教(バラモン教、ヒンディー教等)の守護神を、仏教の守護神として取り入れたもので、当時の日本の仏師には、そのような古代インドの守護神の像容の知識があるはずもない。もとより、②密教は、空海が、古代中国(唐)から直輸入(恵果からの直伝)したものであるところ(朝鮮半島を経由していない)、遣唐使船による渡航も困難を極め、古代中国(唐)から仏師が渡航してきた、という記録もない。
 したがって、少なくとも明王部(不動明王プラス四明王)の五柱については、はり全て空海がオリジナルで感得又は構想したか、遣唐使として唐に留学中にメモしてきた中国伝来の像容をもとに、空海が帰国後、仏師らに指示して造顕させた、と考えざるを得ない。

 

ところで、西宮紘「釈伝 空海(下)」には、次のような行がある。

「…こうして東寺講堂の建立が始まり、落成は翌年(注:天長三年=826年)となる。しかし、講堂内の空海独自の立体曼荼羅を構成する二十一尊については、それぞれの彫刻や彩色は著名な仏師たちに委ねられたものの、空海が直接指導しなければならなかった。特に忿怒部の諸尊(注:明王部の五柱)は、かつてこのような造形を仏師たちは経験したことがなかったのだ。」(672頁)。

「東寺講堂は、朝野の勧進も進み、しだいに形をなしつつあったが、一方で、立体曼荼羅を構成する二十一尊の制作は遅々として進まなかった。仏部は別にして、菩薩部と忿怒王部の諸尊について、工匠たちはその造形について全く経験がなかったのだ。空海の指示がなければ一歩も進めなかった。さらに、全諸尊について、空海は唐風の新味を要求していたのである。それに応えるのは工匠たちにとって容易なことではなかった。」(685頁)

「東寺の講堂は、建物は完成したのであるが、内部に配する二十一尊の彫像はなかなか進捗しなかった。空海は工匠たちを励ます一方で、五重塔建立の勧進を進めた。」(692頁)

 ところが、西宮紘の「釈伝」には、立体曼荼羅の完成時期について、明確な記述が認められない。あるいは、同「釈伝」によると、「天長五年(828)、東寺は民衆に門戸を開いた。」とあるので、それまでに立体曼荼羅は完成できていたのであろうか。
 だが、別の本によると、「(東寺の)講堂は、承和二年(835)の空海入定までに完成し、承和六年(839)に立体曼荼羅の供養が行われた。」とのことである(新見康子「もっと知りたい 東寺の仏たち」東京美術)。

・・・つづく