北口雅章法律事務所

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愚管抄を読んで思う ― 札幌・首切り事件

 札幌の風俗店街(ススキノ)のホテルで、被疑者(29歳・女性)に首を斬られた男性に係る殺人事件が話題になっている。猟奇事件には関心がないし、詳細を知ると当方の精神が侵される思いがするので、基本、この種の事件報道は読まないようにしている。ただ、当該事件の被疑者の父親が精神科医であること、被疑者が持ち帰った被害者の頭部を弄ぶ動画が客観的証拠として押収されており、その動画の撮影について、両親の関与が疑われている、とのことのようである。

 

 

 「愚管抄」(天台座主の慈円が著した歴史書)を読んでいると、日本の歴史の中でも、天皇の首を斬って殺害した事件の話が出てくる。犯人は、仁徳天皇の孫眉輪王;まゆわの王)、被害者安康天皇だ。

 

 愚管抄・巻第三によると、
仁徳天皇の三人の御子は、履中天皇反正(はんぜい)天皇・允恭(いんぎょう)天皇と兄から弟へ順々と即位なさった。ところが、次の安康天皇は、允恭天皇の第二皇子でありながら、兄の第一皇子を殺して位におつきになった。優れた仁徳天皇の御孫でありながら、似ても似つかぬお方で……、即位ののち三年たって、眉輪王に殺されておしまいになった。眉輪王はその時七歳であったと言い伝えられているが、直ちに大臣(葛城)円(つぶら)の邸宅に逃げ込み、円もともに殺されてしまった。」
眉輪王の父大草香(おおくさか)皇子といって安康天皇の叔父であった。安康天皇は、叔父の大草香皇子を殺してその妻を奪って后とされたのであるが、高楼に登って后とむつまじく語り合っておいでの時に、『継子の眉輪王はやがて成人すれば父を殺した自分に対して恨みを抱くのではあるまいか』という天皇のことばを、高楼の下にいた眉輪王が聞いてしまったのである。そこで眉輪王は、高楼に駆けのぼっていなくなり、そこにあった太刀をとりあげ、母の膝を枕にして酔い臥しておられた継父の(安康)天皇の首を切り、大臣の円の邸宅に逃げ込んだと伝えられている」(講談社学術文庫120頁)。

 そして、慈円によれば、安康天皇の殺害事件は、「親の仇を討ったのであるから道理は明白」である、とのこと。これに対し、道理が明白とはいえないのが、崇峻天皇の殺害事件の方である。
 崇峻天皇の場合は、天皇が蘇我馬子を殺そうとお考えになっているのを察知した馬子が、逆に天皇を殺してしまったというものであった。「特にそのころは聖徳太子がおいでになった時であり、何ゆえに聖徳太子はそのまま(蘇我馬子に)何の処置もなさらず、ほかでもない馬子と同じ味方になっていたのであろうかと思うと、まったく理解に苦しむことなのである。」(当時は、未だ正当防衛の法理はない。)。

 慈円によると、安康天皇の殺害事件の道理(意味)は、二つあり、第1に、「仏法によって王法を守ろうとすることのあらわれ」であり、第2に、「仏法が日本に伝来したからには、仏法なしでは王法はありえないという道理」を明らかにするものであった、とのことである(前掲・125頁)。

 だが、慈円は、「太子の死後は、世の中は衰退し、民は乏しくなったといい伝えている」(前掲・29頁)と述べるのみで、聖徳太子の死因については全く言及していない。ちなみに、梅原猛先生は、暗殺説を採る(隠された十字架)。