北口雅章法律事務所

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仁和寺の僧侶と、兼好法師の冷徹な眼

徒然草をザクッと読み返すと、仁和寺の僧侶(法師)が登場する段は、計四段。
一番有名なのは、第52段だが、いずれの段においても、兼好法師の、半ば小馬鹿にした、冷めたい視線を感じる。

要約すると、

第52段
 仁和寺の法師が、年をとるまで石清水八幡宮(男山の山頂にある)を参詣したことがないので、遺憾に思っていたところ、ある時、思い立って、徒歩で参詣に出向き、極楽寺(石清水八幡宮に附属する寺)や高良大明神(同宮に附属する神社)にて参拝した後(いずれも男山の山麓にある)、仁和寺に帰ってしまった。寺に帰った後、その僧侶は、仲間の僧侶に「念願の石清水八幡宮の参詣を果たしたが、尊い神であった。それにしても、参拝に来ていた人々は、皆、山頂に登って行ったが、何か山頂にでもあるのだろうか。八幡神の参拝が目的だったので、山の上までは行かなかったが。」と述べた。
 どんな些細なことでも、先達(案内者)は居て欲しいものだ。

第53段
 仁和寺で召し使われていた童子が、法師になるというので、仁和寺の僧侶らがその記念にドンチャン騒ぎの宴会を催した。その際、余興で、その童子の頭に足鼎を被せて、舞踊らせたところ、その足鼎が頭から抜けなくなってしまった。いろいろ試したが奏功せず、その童子を京都の医師(くすし)の元で診察を受けさせたが、「治療法は医学書に書かれていないし、口伝の医術もない。」と言われ、しかたなく仁和寺に戻った。
 そこで、ある者が言うには、「力業で、抜き取るしかない。たとえ、耳鼻が切れて失われようが、死ぬことはないだろう。」というので、頸(くび)がちぎれるほどに力任せに足鼎を引っ張ったところ、頭から抜けたが、耳鼻は欠けた。危うく命は助かったが、長らくの間、病床に伏せった。

第54段
 仁和寺(「御室」)に素晴らしい稚児(男色相手?)がいるというので、法師らが何とか誘いだして、遊興しようと企て、次のようなことを仕組んだ。
 予め風流な箱に入った弁当をこしらえ、丘陵地(「双(ならび)が丘」)の都合のいい場所に埋めておき、その上に紅葉(もみじ)を敷き詰めた。その上で、仁和寺の中の御所(法王の居所)から稚児を誘い出し、遊んだ後、弁当を埋めた場所まで誘導してきた。そして、一人が、もっともらしく「霊験あらたかな僧侶たちよ、祈祷で奇跡をおこされたい。」と言って、仲間の僧侶に合図を送り、他の僧侶らが、仰々しく、数珠を押しすり、手印を結ぶなど、加持祈祷のポーズをとり、その祈祷の効験で、弁当を現出する手品を供覧させるべく挙行したところ、先に敷き詰めておいた紅葉を払い除けたにもかかわず、弁当箱は現れなかった。実は、法師らの悪巧みを横で見ていた者が、法師らが稚児を誘い出す間に、その弁当箱を窃取していたのであった。
 かくて法師どもは、稚児の前で、その場を取り繕うこともなく、互いに口汚く罵り合い、腹を立てて、仁和寺に帰っていった。
 あまりに派手な演出を狙うと、必ず失敗するものだ。

第218段
 狐は人に食いつくものだ。…
 仁和寺にて、夜、本堂の前を通った法師に、三匹の狐が飛びかかって噛みついた。法師は、思わず短刀を懐から出して、反撃したところ、二匹を短刀で刺すことができ、うち一匹が死んだ。だが、あとの二匹は逃げた。法師は何カ所の噛みつかれたが、無事であった。

さて、仁和寺は、光孝天皇の勅願によって、仁和4年(888)、宇多天皇が創建したとされる由緒あるお寺、真言宗御室派の大本山である。一瞬、徒然草で叙述されている真言宗僧侶のマヌケぶりは、天台宗系の僧侶からの冷たい視線の現れか?とも思ったが、兼好法師は、世捨て人であって、何処の教団にも属していない。
 ということは、弘法大師空海を開祖する真言宗にして、この体たらくだったのかぁ…、情けない!

ちなみに、竜王戦の第2局は、「仁和寺」で実施されるが、
その前に、藤井七冠の「八冠制覇」がかかる王座戦は、
明日、否、今日(10月11日)からだがね。