北口雅章法律事務所

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「トルストイの妻」は、「悪妻」だったのか?

 

ウィキペディアによると、デール・カーネギーは「人を動かす」において、トルストイが臨終の直前「妻を近づけるな」と遺言したこと、また、死の床でソフィア(妻)が「お父さん(トルストイ)が死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。

 しかし、もし真にトルストイの妻が、死の床で、「お父さん(トルストイ)が死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたとすれば、自身の所業が夫(トルストイ)にもたらすダメージを自覚していたことになるから、必ずしも「真の悪妻」とはいえまい。

 また、ウィキペディアによると、フェミニスト達は、トルストイ夫妻の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかった一方、ソフィア(妻)が十数人の子どもたちを養い、生活を守るために現実的に生きざるを得なかったためと主張している、とのことである。

 フェミニスト達の言い分にも、一理あるだろう。
 だが、家庭内の実情(惨状?)は、外部からは判定できない。問題の本質は、「結果として」トルストイがいかなる「結婚観」を懐くに至ったか、である。彼が結婚に対して否定的であればあるほど、妻との関係性にかかる人生経験、生活体験が、彼の「結婚観」に暗い陰を投げ落としたことは、容易に想像がつくからだ。

トルストイ曰く、

1.「正しい結婚生活を送るのはよい。しかし、それよりもさらによいのは、全然結婚をしない事だ。そういう事の出来る人は稀にしかいない。が、そういう事の出来る人は実に仕合わせだ。

2.「結婚せずにいられる場合に結婚する人があるならば、そういう人たちは、つまずきもしないのに転ぶ人と同じ愚挙をあえてするものである。ほんとうにつまずいて転んだのなら、それは仕方がないけれども、つまずきもしないくせに、なんでわざと転ぶ必要があろう? もしも罪なしに清浄潔白で生きることが出来るなら、結婚しないに越した事はない。

3.「童貞ないし処女で終始する事が人間の本性に反するというのは嘘だ。童貞処女で終始する事は可能だし、またそれは、幸福な結婚生活に比較してさえ、比べものにならないほど大きな幸福を与える。」


12.「《姦淫をするな、とあんたたちには言われてある。(とモーゼの掟の言葉をあげてキリストは言ったのである。)しかし、わたくしはあんたたちに向かってさらに言おう。いやしくも色情をいだいて女を見る者は、すでに心の中で、その女と姦淫をした事になりますのじゃ。》(マタイ伝第五章第27-28巻)
 これらの言葉は、キリストの教えによれば、人間はすべてまったき清浄潔白に向かって邁進すべきものだという事以外、何物をも意味していないのである。…(以下略)」

2.「純潔な青年や少女の内部に性的感情が目覚めた時、彼等はどうしたらよいか? 何によって導かれたらよろしいか? 他でもない。自分の身をあくまでも純潔に守って、いろんな思想や願望をいやが上にも純潔に保つように心掛くべきである。…」

――トルストイ著「人生の道 上巻」(原久一郎訳;岩波文庫)

トルストイは、「悪妻という現実」から眼を逸らしたことで、同時に、「人間の本質」からも眼を逸らしてしまったとみえる。いくら「高邁な理想」を抱いた文豪とはいえ、非現実的な理想論を説くことに意味があるとは思えない。