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「詳説 世界史」(山川出版社)で復習するパレスチナ問題

「詳説 世界史」(山川出版社。以下『山川』という。)は、高校世界史の教科書の定番であり、私も高校時代にこの教科書で世界史を学んだ。この年になってから、最新の改訂版を読み返すと、やはり高校時代とは理解の度合いが大きく異なることを自覚できる。
何故なら、高校時代と今とでは、「ベース」が違うからだ

 

現在、最もトピックな事件である、「イスラエル軍によるガザ市への侵攻・報復攻撃」の背景にある「パレスチナ問題」の歴史について、『山川』では、どのように扱われていたか振り返ってみることにした。

1.そもそもの発端

【p.299】に「(第一次世界大戦後の西アジアで)もっとも大きな矛盾が生じたのはパレスチナである。イギリスは大戦中、1915年のフセイン・マクマホン協定によってアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束する一方、17年のバルフォア宣言ではパレスチナへの復帰をめざすユダヤ人のシオニズム運動を支援する姿勢を示し、双方から協力を得ようとした。【→p.280】こうした相反する約束に加えて、大戦後にパレスチナはイギリスの委任統治領となったため、アラブ・ユダヤの両民族はそれぞれ権利を主張して対立し、現在まで続く深刻なパレスチナ問題が生まれることになった。【→p.321】」と書かれている。

確かに、イギリスの『二枚舌外交』が諸悪の根源であることが、適切に表現されている。だが、実際には、「サイクス・ピコ協定」を加えると、イギリス帝国主義の極めて悪質・無責任な『三枚舌外交』の所産である。このことを正確に理解するには、上記記述の途中で【→p.280】を読み返す必要がある。

【p.280】に「第一次世界大戦中、列強は、秘密条約にもとづく戦時外交を繰り広げた。現地住民の意思を無視して領土の分割を取り決め(注①)…」との記述があり、この取り決めの代表例として、注①で「イギリス・フランス・ロシア間でオスマン帝国の分割を取り決めたサイクス・ピコ協定」が挙げられている。つまり、イギリスは、戦後もパレスチナを支配するつもりだったのだ。

★ピコ協定の分割案を正確に理解するには、参考書が必要となる。
「サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領」((https://ja.wikipedia.org/wiki/サイクス・ピコ協定)

 

★イギリスは、「アラビアのロレンス」(イギリス人考古学者)の陣頭指揮のもと、アラブ人部隊を使って、トルコ帝国を攻撃させている。

 

2.第二次世界大戦後の動向

『山川』では、第二次世界大戦で、イギリスとフランスの国力の低下(ドイツ・日本との戦争で疲弊した)を背景に、アラブ民族主義が高揚し(イギリスは委任統治権を放棄)、1945年(日本終戦の年)、アラブ連盟が発足したこと、次いで、1947年、国連がパレスチナ分割案を決議した、という客観的記述に徹している。
 教科書として当然の姿勢ではあるが、国連のパレスチナ分割決議は、ユダヤ人国家(イスラエル)の承認を意味し、アラブ連盟の反発が必至なのに国連がユダヤ人居住区と提案した区域に住むパレスチナ人は、その場を去れ!とでもいうのか?)、何故、強行採決に至ったのか? について『山川』では触れられていない。一説に、ユダヤ系アメリカ人がトルーマン大統領(の不人気に乗じて)を背後で脅し、国連分割案を支持させた、という説もある。エジブト・シリア・イラク・レバノン・トランスヨルダン・イエメン・サウジアラビアの7カ国からなるアラブ連合が、勝算の見込みがなくして、国連の分割決議に参加したとも思えないので、実は、アメリカがアラブを裏切り、裏でイスラエル建国を支援したのではないか、と想像している。

 かくて、1948年、イスラエルの建国宣言とともに、第一次中東戦争が勃発し、国連の調停(実態はアメリカの調停?)によりイスラエルは独立を確保した。
 だが、結果として、「郷里を追われた」約75万人ものパレスチナ難民(アラブ人)を生み出した国連決議・調停に「正義」があるといえるのだろうか?
 疑問だ!!

 

3.第2次中東戦争から第四次中東戦争まで

 

1956年、エジプト(ナセル)のスエズ運河国有化宣言に端を発した第二次中東戦争は、イスラエルの権益には影響しなかったが、結局は、イギリス・フランス帝国主義の残滓が払拭された、ということであろう。

 

第三次、第四次中東戦争になると、イスラエルの軍事力の強さが際立つ。
エジブトのサダト大統領は、1978年、カーター大統領(アメリカ)の仲介で、イスラエルのペギン首相と和解合意(キャンプデービットの合意)をし、翌1979年にはイスラエルとの間で平和条約を結んだが、“アラブの裏切者”とみなされ、その僅か2年後に、暗殺された。この衝撃の報道を、新聞で読んだ記憶があるので、この頃までには、私も新聞を読むようになっていたことがわかる。

 

4.オスロ合意が、ノーベル平和賞だって?

 

1993年、「ノルウェーの調停」で、イスラエル(ラビン首相)PLO(パレスチナ解放機構・アラファト議長)とが、「相互承認」「パレスチナ人の暫定自治政府の樹立」で合意(オスロ合意)に至った、とある。実際は、アメリカ(クリントン大統領)による、表面的な和平協定にとどまった。この調停の二年後、イスラエルのラビン首相は暗殺されたし、アラファト議長も毒殺された疑いがある。


 

 そして、今回のイスラエルのガザ侵攻が、「オスロ合意」の破局・霧消を物語っている。