北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

京都市に尋ねてみたい、西明寺の成立に関する疑問

神護寺の成立時期については、疑問が少ない。
日本後記によると、天長元年九月二七日、「高尾寺を定額寺(じょうがくじ)とし」との記載があり、西宮紘著「釈伝空海」によると、「神願寺(河内国=大阪)は、京都の高尾山寺に合併されて定額寺となり、神護国祚真言寺、略して神護寺と改称されたのであった。神護寺は、五年後、空海に付嘱され、…神願寺本尊薬師如来は、神護寺に移されることになったのであった。」(668頁)。

このほど訪問した、神護寺の隣にある西明寺の成立は怪しい。
京都市の説明によると、天長年間(八二四~八三四)に、弘法大師(空海)の弟子、智泉が神護寺の別院として開創し、…」とある。
しかしながら、空海の一番弟子であった智泉(当時37歳)は、天長2年(八二五)、高野山東南院で入寂しており、このとき空海は、智泉の入寂を歎き哀しみ、その供養のために有名な「亡弟子智泉が為の達しん文」を書いている。したがって、天長年間初頭に若死した智泉が、西明寺を開創するなどということがありえようか?

(西明寺)

 

空海の高弟で、金剛、胎蔵両部にわたり密教の奥義を極めた(「両部遺すことなし」)智泉であっても、真言・三密加持の祈祷によって、病魔を克服することはできなかった。空海は、「生者必滅の理は、その理を悟っていた釈迦如来でも免れなかった」(「世諦の事法は如来すら存して毀(やぶ)りたまはず」)というものの、弟子智泉においては、「真言の秘印は汝既に授かって謬(あやま)らず」(真言を唱え、念ずる奥義を授与して間違えなかった)というのであるから、即身成仏していたはずであるが、入寂(生物死)は、即身の曼荼(まんだ)」(仏に生まれ変わる=曼荼羅の世界に入る)ということになる、らしい(「亡弟子智泉が為の達しん文」『性霊集補闕鈔・巻第八』)。

 

(西明寺近くのお食事処で食べた、山菜そば)