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伴大納言絵巻が描く「応天門火災事件」の放火犯は誰か? その1

伴大納言絵巻』は、応天門事件の経過を描いた絵巻物として、日本史の教科書には、必ず出てくくる。「院政期」の風俗を描いたものとして史的価値があるからだ。

 

 「応天門事件」は、いわゆる「摂関政治(藤原氏が天皇の外戚として、摂政・関白の要職を独占して国政を支配した政治体制)」の端緒となった事件であるが、その真相について、日本史の教科書の記述は曖昧である。
 そこで、『伴大納言絵巻』の詞書・描写の内容について、「現代の法律家からみて、何処がおかしいか」という視点をもとに、「応天門事件」の真犯人を探ってみたい(絵巻関連の図等は、黒田泰三「思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻」小学館から引用させていただく。)。

(燃える応天門)

(応天門の火炎を見上げる群衆=野次馬の顔は、炎の熱気のため、赤ら顔に火照っている)

(火災現場に急行する、検非違使=警察官の随行者)

 

 まず、「応天門事件(=「応天門の変」)」とは、どのような事件か?

 山川出版社の「詳説 日本史」によると、「858(天安2)年に(藤原良房は、幼少の外孫を即位させ(清和天皇)、みずからは摂政になって天皇の政務を代行し、866(貞観8)年の応天門の変(①)では、伴・紀両氏を没落させた。」とあり、「応天門の変」(①)の注記として、「(応天門の変とは)大納言の伴善男(とものよしお)が応天門に放火し、その罪を左大臣源信(みなもとのまこと)に負わせようとしたが発覚して、流罪に処せられたという事件。」と記述されている。つまり応天門火災事件の放火犯が、伴善男・大納言であることを前提とする記述となっている。

 日本史の教科書がこのように「応天門火災事件の放火犯」=「伴善男」と決めつける理由は不明であるが、教科書的には、「宇治拾遺物語10-1」の記述にあるとおり、伴善男が放火犯として舎人(下級役人)から告発され、取り調べの結果、流罪にされたという史実があることから、そのように扱わざるを得ないのであろう。『伴大納言絵巻』も、「宇治拾遺物語10-1」の記述に沿って、忠実に描写・叙述されている。
 しかしながら、「応天門火災事件の放火犯」=「伴善男」だと思っている歴史学者は誰もいないのではないか。以下に述べるとおり、真犯人が明らかだから。

 

応天門の位置

左は、「大内裏」=皇居の平面図である。皇居の正門が「朱雀門」であり、外部の人間は、朱雀大路を北上して朱雀門に至る。そして、朱雀門に入った正面に「朝堂院」(天皇が政務を行う「国法上の官庁」)があり、その正門が「応天門」である。上掲右図は、「朝堂院」の拡大図であるが、応天門の左手前には「翔鸞楼」、右手前に「棲鳳楼」という左右対称の楼閣建造物があり、応天門とは回廊でつながっている(青色の四角)。そして、「応天門」のみならず、「翔鸞楼」及び「棲鳳楼」も同時に火災で焼失している(赤色の四角の所)。当時の検非違使には、消火機能はない。何故、火を止めることができたのか?

(燃える「翔鸞楼」

 

時の権力者は誰か?

864(貞観6)年 清和天皇元服

866(貞観8)年 3月10日 応天門炎上

        8月3日 伴善男が告発される

        9月22日 伴善男、遠流となる

867(貞観9)年 藤原良相(右大臣)、死亡

868(貞観10)年 源信(左大臣)、死亡 

以上の年表をみただけで、犯人(黒幕)は特定されよう。

 ちなみに、黒田氏(故実「検非違使随兵の騎馬による焼亡奏」)によると、検非違使が火災時に現場に駆けつけるのは長寛年間(1163-65)から建久年間(1190-99)まで、つまり12世紀の風俗であるから、伴大納言絵巻の成立時期も12世紀のことと推認される。したがって、この絵巻の成立は、事件発生(866)から優に300年も経過していることになるから、絵巻の作家は、宇治拾遺物語の叙述を、300年後の風俗をもとに「想像を交えながらも」忠実に再現・描写しているに過ぎず、絵巻の内容自体には、「事件の真相を暗示」といった政治的意図は認められない。

つづく