北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

伴大納言絵巻が描く「応天門火災事件」の放火犯は誰か? その3(了)

(その2)のつづき

 

 深夜、役所(右兵衛)での時間外労働の帰宅途上、舎人Aが応天門を通りかかると、怪しい人の気配となにやらヒソヒソ話が聞こえてきたので、傍らにひそんでいる、伴大納言(善男)、その子・中庸(なかつね;当時右衛門左)、及びその部下・とよ清の3名で、応天門の柱からしがみつきながら降りてくると、朱雀門に向かって走り去った。次いで、舎人Aも、朱雀門を出て二条堀川付近に来ると、内裏の方向で火事が発生した、と大騒ぎになったので、戻ってみると応天門が半焼していた(なんで、半焼で火が消えちゃうの?)。

舎人Aは、放火犯は伴大納言(善男)ら3名と察知した。その後、左大臣・源信が犯人扱いされているのをみて、えん罪だと思ったが、不介入を決め込んで黙っていたところ、やがて、源信が無罪放免となったので、「えん罪は晴らされるもの」とわかった。

ところが、

伴大納言の部下(出納役)Bの子と、舎人Aの子との子ども同士の喧嘩が発端となって、伴大納言(善男)らが放火犯として検挙されることになった。

■ 髪のつかみ合いの喧嘩をする出納役Bの子(右)と、舎人Aの子(左)

 

伴大納言(善男)が検挙されるに至る経緯は、伴大納言絵巻と宇治拾遺物語とでは若干異なる。宇治拾遺物語では、子ども同士の喧嘩の最中、舎人Aの目の前で、「出納役Bが」自分の子を家に入れ、舎人Aの子の髪を引き抜き、地面にうつ伏せにして死ぬほど踏みつけた(「子の髪を取りて打ち伏せて死ぬばかり踏む」)ことから(父親の舎人Aは、我が子への大人げない蛮行を黙って見ていたというのか?)、舎人Aが出納役Bを口頭で注意したところ、出納役Bが「私のバックには主君の大納言(伴善男)がいるのでどんな悪行(「いみじき過ち」)をしてもおとがめはないのだ。」といって居直った。そこで、舎人Aが出納役Bに「お前の主君の大罪を私が告発したら、ただではすまないぞ。」と言い返したところ(舎人Aの告発場面はない)、人々が集まってきて、二人の父親どおしの喧嘩がウワサとなり、やがて清和天皇の耳に入ったため、舎人Aが判司に呼び出されて尋問され、「大納言(伴善男)の放火」を証言した、ということになっている。

 これに対し、伴大納言絵巻では、子どもの喧嘩に親である出納役Bが介入してきたことは同じであるが、さすがに大の大人が舎人Aの子の髪を抜き取ることはせず、「出納役Bの子が」相手の子の髪の抜去を行ったことにされており、出納役Bは、舎人Aの子を足蹴にするとどまっている。また、伴大納言絵巻では、出納役Bの、我が子に対する足蹴と上記暴言に対し腹を立てた舎人Aの夫妻が怒って、「大納言(伴善男)の放火」の事実を路上で吹聴したことになっている。

■出納役Bが、舎人Aの子を、足蹴にしている。出納役Aの子が、喧嘩相手の髪を手に持っている。

 

■「大納言(伴善男)の放火」を吹聴・公言する舎人A夫妻

 


■そして、判司から厳しい取り調べを受けた舎人Aが、「大納言(伴善男)の放火」の事実を公式にも供述したことになっている。

 

■かくて、検非違使が、大納言(伴善男)を逮捕すべく、その邸宅に向かい、大納言(伴善男)を八葉車に乗せて、連行する。

■大納言・伴善男の逮捕に向かう検非違使

 

■八葉車に載せられ、連行される大納言・伴善男

 

主人(伴善男)が連行されて歎き悲しむ使用人ら

■歎き悲しむ女御たち

 

 かくて、大納言・伴善男は、「応天門火災事件の放火犯」(天皇の政治を行う官庁の正門に放火することは、国家への反逆罪となる。)として摘発された
 史実として、その後、大納言・伴善男は、その放火犯人として伊豆に流され、その子・中庸(なかつね)は、共犯者として隠岐の島に流される。これについて、宇治拾遺物語も伴大納言絵巻の詞書でも、大納言・伴善男への刑罰は、同人が左大臣・源信に「濡れ衣」を着せようとした悪行の因果、つまり自業自得という形で、「説話」に取り込まれているのだ。

このような「説話」文学が、物語としては、非現実的で破綻していることは自明であろう。

第1に、大納言・伴善男には、放火の動機がない。伴善男を大納言に抜擢したのは他ならぬ清和天皇である。主君に反逆するいわれなどないし、大納言(ナンバー4)ともなれば、大臣への昇進は保証されたようなものであろう。左大臣・源信を蹴落とす必要がない。
第2に、もし仮に伴善男が左大臣・源信の「左遷」=失脚を企てたと仮定しても、大納言(ナンバー4)ともあろう人物が「下僕」を「下手人」に遣わさず、自ら嫡男らとともに犯罪現場に乗り込んで、準現行犯を目撃されるような危険を冒すわけがない。
第3に、応天門火災事件の発生時期は、宇治拾遺物語でも示され(「夜更けて家に帰るとて」)、大納言絵巻でも確認されている(火災現場に急行する検非違使の従者は、「松明」を持っている。)ように深夜である。街路灯がない時代に、舎人Aが真っ暗の中、大納言・伴善男らのメンツを目撃・特定できるわけがない。

■松明を持って、燃え盛る応天門に向かう検非違使の従者

 

つまり、大納言・伴善男も冤罪なのだ。

 

ブログ(その1)で述べたとおり、応天門事件によって、臣下ナンバー4の伴善男が失脚したのみならず、翌年にはナンバー2(右大臣)藤原良相が死亡し、翌々年には、失脚しかかったナンバー3(左大臣)源信も死亡している(おそらく、後二者は暗殺だろう。)
かくて、上掲・宇治拾遺物語が世間に流布して得をするのは誰か。いうまでもないが、あたかも清和天皇に諫言し、源信を伴の善男の讒言から救ったとされるナンバー1(太政大臣)藤原良房をおいて他にいない。

 動機は二つあった思う。

第1は、清和天皇の元服とともに、摂政の地位を退任せざるを得なかった良房(太政大臣)自身の地位を安泰にさせる(良相・源信の相次ぐ暗殺は、元服後に良房から独立・離反傾向にあった清和天皇に対する“見せしめ”、無言の圧力ではなかったか?)。

第2は、良房(太政大臣)自身の後継者・藤原基房(甥)のライバルを粛清することにあった、と考えられる

 かつて古代天皇(天武・持統)が、自らの権威・権力を正当化するために「神話」(古事記・日本書紀)を創作させたように、貴族(藤原家)が、自らの権威・権力を正当化するために説話を創作させたものと思われる。