北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

網野徹哉(東大教授)「インカ帝国はなぜ滅びたか」

一昨日,母校から,同窓会誌「鯱光」が送られてきていた。
この最新号(平成30年7月1日発行)をパラパラめくると,
「インカ帝国はなぜ滅びたか」と題する講演録が載っている。
講師は,わが「同期」(旭丘31期)の誇りの一人,網野くんではないか。
東京大学大学院総合文化研究科教授の肩書がついている。
(この歳になると,周囲の友人達が皆,偉くなっているので,私のような,しがない弁護士では肩身が狭い)

実は,彼とは,同じクラスになったことはないので,
多分,高校時代は,会話を交わすことは殆どなかったと思う。
が,彼のお父様は,著名な日本史学者(われわれの高校時代は名古屋大学教授だった,網野善彦先生)で,
彼とは共通する親友が約2名いるので,彼のことは,かねがねうかがっているし,
会えば,挨拶を交わす関係ではある。

前回,彼に遭ったのは,2014年8月9日に開催された35周年の同期会のときだったが,
会場で彼と顔が合い,挨拶をかわしたとき,
網野大先生から,「北口くん!,法科大学院制度って,『大失敗』だったんだってね!!」と
いきなり,ズバリと本質を突いた声かけを受けたので,
「ホォ,わかっとるじゃん!,流石に歴史学者は鋭いなぁ。」と関心したものだ。

それはさておき,彼の前記・講義録を,もし私が,彼の学生として聴講していたら,
どのような講義ノートを作るか?
私の「講義ノート」を,私の独断と偏見的解釈を交えてブログに書くと,「そんなこと話していない!」と叱られそうだが,私流儀にアレンジすると,次の如くにメモられる。

1532年,ピサロが率いるスペイン人の「征服者集団」(わずか168名)は,
数万もの軍勢を率いるインカ王(アタワルバ)と対峙して,生け捕りにし,
その王を翌年処刑し,その後,スペイン軍らがインカ帝都(クスコ)に無血で入場し,
かくて,インカ帝国は崩壊した。何故,こんなことが起こり得たのか。

(「詳説・世界史図録」山川出版社より)

インカ帝国は,16世紀初頭,絶頂期を迎えていたが,1526年,突如,第11代・インカ帝国王(ワイナ・カパック)が謎の死を遂げる(「天然痘」が死因とされているようだが,私=北口が勝手に思うに「毒殺」されたのではないか?)。その後,第12代の帝国王位をめぐって,異母兄弟の王子相互間で継承戦争が勃発し,この戦争に勝利を収め,戦勝に気分をよくしたインカ帝国の新王・アタワルバが,カハマルカ(ペルー北部)に逗留していた。

このときだ。1532年11月16日,このインカ国王(アタワルバ)に,ドミニコ会の修道士が通訳を伴って,スペイン国王の使いと称して近づいた。その修道士(聖職者)から手渡された書物の扱いに窮したインカ国王が,苛立って,その書物を放り投げたところで,修道士の「神への冒瀆!」という合図とともに,それまで身を隠していたピサロ達が,大砲を轟かせ,インカ国王の親衛隊に向かって,馬にのって突撃・急襲し,パニック状態に陥らせ,鉄剣で刺し殺し,インカ国王を生け捕りにしたという。
当時,インカ帝国では,神権政治が行われており,神聖王の処刑は,そのままアンデスの神々の権威を失墜させ,カリスマによる統治の終焉を招いた(網野先生は,もちろん「神権政治」とか,「カリスマ」なんて言葉は使っていない。)。どうやら,キリスト教徒が,帝国主義的な侵略行為のお先棒を担いでいたようだ(これも,私の解釈。)。
 帝国の瓦解には,いろいろな背景・要因が複合していたようである。「情報」格差,兵器の優越性,帝国内部の反対分子の存在(先住民の中には,インカ帝国の支配からの解放を望む者もいて,スペイン勢力に協力したようだ。)等等。そして,制服事業が,資本主義的な合理性(アンデス文面が蓄積していた金銀の財貨が,征服者らの利潤に転化し,さらなる「制服」=「投資」事業が展開される)につながるといった社会構造が指摘される。

 かなり,いい加減な要約になってしまい,網野先生から「不可」をつけられそうだが,
正しい理解をしたい方は,
網野 徹哉 (著),「南北アメリカの歴史 (放送大学教材) 」(2014/3/1)の方を読んでください。