北口雅章法律事務所

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『教養』は,『関心の広さ』『経験値の高さ』と相関する

『教養』は,『関心の広さ』と『経験値の高さ』に比例して深まる(と思う)。

試しに,今の法科大学院の学生,
否,法科大学院の各教授に対し,
一般教養試験の問題として,次のような問題を出したら,
どのような回答が出てくるか。

問 次の朝日新聞の記事を見て,『想起される(できる)』『現代日本社会の病理』又は『批判されるべき問題点』について,あなたが重要だと思う問題のうち,上位3つを挙げて,簡潔に説明せよ(ここに『想起される(できる)』とは,新聞記事の内容自体には必ずしも拘束されず,その内容と直接関連しなくてもよい。新聞記事を一見してみて,それを機縁に思い浮かべた「現代日本社会が抱える問題点」 ― 顕在的な問題であれ,潜在的な問題であれ ― を自由に論じてよい。)

ここで試されているのは,『教養の広がり』である。
法科大学院関係者の多くは,上記出題の解答としては,
『穂高問題』ばかりに着目して,これに重点を置くのではないか。
朝日新聞の記事の取扱いのように。
『穂高問題』の切り口は,『現代日本社会の病理』という観点からは,いろいろ考えさせられる。
例えば,「現代国会議員の資質とモラルの低下」,「東京大学経済学部卒業生に示された教養の程度」,「立憲主義に反する国会議員の発言の横行」等々。

しかしながら,出題者の出題意図は,あくまでも『教養の広がり』であって,
『穂高問題』だけでは,寂しい。
勿論,個々人の,社会問題に関する『関心の広さ』と『経験値の高さ』によって,上記新聞記事に内在する問題点に関する問題意識の所在,「発見」される問題の対象は,千差万別であろう。

 

私が,前掲記事を見て想起した『現代日本社会の病理』,懸念される『問題点』は,次の3つ。

1.政権与党の自民党は,中途半端で「無意味な」決議をするんじゃねえ!!

「辞職勧告決議には応じない」と予め表明している厚顔無恥の青二才に対し,
「国会議員としての『資格はない』と断ぜざるを得ない」と決議しながら,
自民党が野党と歩調を合わせて「辞職勧告決議」を控える意味が理解できない。
「辞職勧告決議」も「糾弾決議」も法的意義も法的効果も大差ない。
自民党決議でも,
「国会議員としての『資格はない』と断ぜざるを得ない」と判断した国会議員に対し,「ただちに,自らの進退について判断せよ。」というのであれば,
「穂高議員に求められている」正しい選択肢は,ただ1つ,辞任しかない。
にもかかわらず,穂高議員本人が当該「糾弾決議に従わないこと」自体が,
自民党の合理的意思としても,「辞職勧告」に値するという判断になるはずだからである。
したがって,『適応障害』などいう巫山戯(ふざけ)た診断書を出して恥じない『アホだか』については,最初から,全会一致で「辞職勧告決議」をするのが,衆議院としてあるべき姿ではないか。政権与党が政権与党としての責任ある役目を果たしていないこと,これが第1の『現代日本社会の病理』である。

 

2.柳田国男の「ことば」は,正論であるが,現代の日本社会に通用するか?

現代の日本社会は「格差社会」というよりも「二極化社会」ではないか。
育児環境の問題という観点からすれば,一方で,極端な「過保護」と,他方で,極端な「ネグレクト」が共存する社会。
前者の家庭環境には,柳田国男の「ことば」は警鐘となるが,
後者の家庭環境には,前提を欠き,妥当しない。
柳田国男は,「くわえて大人の側も,『遠からず彼らにもやらせることだから』と,仕事ぶりも草相撲や盆踊りに興じている姿も,(子供たちに)隔てなく見せていた」というが,このように,自分の「仕事ぶり」を子どもに見せられる「模範的な」親たちが,あらゆる分野で後継者の育ちにくい,現代の日本社会,都市化社会にどれほどいるというのか?
また,前掲記事で指摘されている,「与えるではなく,見せるという形で,子供たちが勝手に育つのを待った。」というのは,まさに正論であり,普遍的な「学習の原理」であって,この原理は,勿論,法科大学院教育にも妥当する。そこで,私は,言いたい。法科大学院生らが「勝手に育つ」のを期待できるほどの「模範的な」「裁判実務」を「見せるという形で」講義ができる人材(教員)が,今の法科大学院に,どれだけいるのか???と。 

 

3.今回,柳田国男の「ことば」を紹介された「折々のことば」の筆者は,
「鷲田清一」先生(大阪大学名誉教授)である。

「鷲田清一」先生の碩学ぶりは,とどまるところを知らず,勿論,これが『現代日本社会の病理』であるわけではない。むしろ,『現代日本社会の病理』として懸念される問題は,大学教員のレベル低下である。何がいいたいか?
石原千秋(早稲田大学教授)著『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)を読んでいたら,―ちょっと古い話だが―「・・・このところ鷲田清一は大学受験国語の流行作家の一人となったが,とくに一九九九年度は数校以上の大学がこの本(注:鷲田清一著『普通をだれも教えてくれない』潮出出版社)から出題した。大学教員の読書量がいかに少ないか,また入試問題にふさわしい文章がいかに少ないかを如実に示す出来事だ。」という記述に遭遇した(129頁)。石原先生が,このような指摘をされてから,約20年が経過した。今の大学教員のレベルが,さらに格段に落ちていることは,ほぼ間違いないと思われる。
 「鷲田清一」先生の名前をみかけると,石原先生の上記指摘をつい『想起』してしまう。