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弁護士のブログBlog

再復刻! 巌谷小波著「こがね丸」(上)

 巌谷小波(いわや さざなみ)「黄金丸」を著してから,三十年後に書き改めたのが「三十年目書き直し こがね丸」(博文社)である。そして,その発行は,大正10年6月5日のことであった。著作権の保護期間は,原則として,著作者の死後50年間であるが(著作権法51条2項),巌谷小波が亡くなったのは,1933年(昭和8年)9月5日のことであるから,その保護期間は優に過ぎている。

 尊敬する丸山眞男先生(東京大学・政治学教授)の著作集・第16巻を読むと,

「私がいちばん感銘を受けた書物」との標題のもと,

  ーー書名

巌谷小波『こがね丸』

  ーーお読みになった時期

小学校一年生のとき
             
              『図書』1960年5月号・岩波書店
とある。

 今般,本著を入手し,拝読したところ,残念ながら既に老境に入った私の心にはさほど響かなかったが,仏教説話的な要素を含みつつ,家族愛・道義観念等を基調とし,読者の一興をそそる日本昔話風・復讐物語であった。
 そして,天皇機関説事件で有名な美濃部達吉先生(東京帝国大・憲法教授)が,『こがね丸』に対し,「適才に依って創始」と題した寄稿文を書かれていた。曰く「…古い新小説だかに載った小説以来,時々お書きになった小説を愛読して,流暢なお書き振りに敬服しておりましたが,愈々お伽噺をお始めになったのを読んで,この新しい文学がこの上もない適才に依って創始せられたのを喜びました。」と。
 また,小山内薫劇作家・築地小劇場創設)に至っては,「夜も抱いて」と題して,次のような推薦文を寄せていた。曰く,「私は十才の折,大病をして,長い間床の中にいました。その頃から書物というものを熱愛するようになりました。丁度その時分の事です。私が初めて『こがね丸』を手にしましたのは。何は措いて,私はその本の美しいのに心を奪われました。活字の大きいのも気に入りました。袋紙になった日本紙の表装がケバケバになる程,繰り返し繰り返し読みました。夜も抱いて寝ました。」と。

 このような児童書の名作を眠らせるのは,勿体ないことである。小学校のお子さん・お孫さんを抱えている家庭におかれては,ご一緒に一読をお勧めしたい。
 以上の趣旨から,本ブログでは,「小学生でも読めるよう」に原文の表記を大幅に修正し,巌谷小波の「現代版・こがね丸」をご紹介することにした。原文は,全ての漢字にフリガナがついているものの,読みにくい旧字体の漢字や,死語等が散見されるため,格調高い文語表現には一定の配慮をしつつも,なるべく読みやすさを優先して,適宜,現代文字,現代用語に改めさせていただいた次第である。

さて,物語のはじまり,はじまりー!

 

       (一)

 昔ある山奥に,一匹の大虎が住んでおりました。身体(からだ)はただの子牛よりも大きく,目は鏡のように光って,髭(ひげ)は針のように鋭く,一度オウと吼(ほ)えれば,その声が山中に響(ひび)いて,樹(き)に止まっている鳥までが,驚(おどろ)いて下へ落ちるという勢い。獣(けだもの)仲間は誰(だれ)一匹,畏(おそ)れ従わない者もないくらいでしたから,虎はますます大威張(おおいばり),名も「金眸」(きんぽう)と名乗って,山中の大王になっていました。
 ちょうど一月の初めのことでした。春というのは名ばかりで,昨日からの大雪に,野も山もすっかり埋まり,寒気(さむけ)もひととおりでありませんから,流石(さすが)の大虎も洞穴(ほらあな)に籠もって,独(ひと)りで退屈しておりますと,そこへやって来ましたのは,普段(ふだん)からお気に入りの古狐で,「聴水」(ちょうすい)という奴(やつ)でした。
「イヤ大王様!ひどい大雪でござりますな。ちょっと御見舞に参りました。」
と、言いますと
「オオ,聴水か,よく来てくれた。何しろこの大雪では,外出をしても獲物(えもの)はあるまいが,実は少々空腹(ひもじく)なって,独り困っていたところじゃ。」
と,金眸のつぶやくのを,みなまで聞かず,
「それならばご心配には及びません。丁度好い獲物をさし上げましょう。」
「それはありがたい。どこへ持ってきた?」
「ナニ,持って参ったのではございませんが,大王様さえお嫌でなければ,私が好い獲物のある所へ,ご案内申そうと存じまして・・・」
「イヤ,それならば案内してくれ。ナニ,私も年こそ取ったが,まだこれしきの寒気には恐れんぞ。してその獲物は一体何所(どこ)にあるのじゃ?」
こう聞かれますと,聴水狐したり顔に,
「それならばお聞き下さい。実はその獲物と申しますのは,この山の麓(ふもと)の里の,庄屋の家の飼犬でござりますが,私には少々恨みがございますので,もし大王様が仇(かたき)を討って下されば,こんな嬉しいことはございません。」
「それは聞きすてならん。恨みというのはどんなことじゃ?」
「さればでござります。それは一昨日の話でございますが,丁度その庄屋(しょうや)の屋敷(やしき)の,表を私が通りかかりますと,納屋(なや)でしきりに鶏(にわとり)が鳴いておりました。これは幸いの獲物と存じまして,裏の垣根から忍び込み,すでにその鶏を占めようといたしますと,早くもその犬めが見つけまして,いきなり私に飛んで掛かります。これはたまらんと思いながら,急いで元の垣(かき)の穴から,外へ出ようと致します間に,もうそばへやって来て,この私の大切な尻尾を,グッと咬(く)わえて引き戻そうとします。こちらははって出ようといたします。・・・その弾(はず)みに御覧ください! 先の所を食いちぎられて,やっと命は助かりましたが,おかげで尻尾は半分になって,生まれもつかない不具(かたわ)にされてしまいました」
と切られた尻尾を見せながらさも悔しそうに話しますと,金眸大王は気の毒がり,
「これはなるほど酷(ひど)い目に会ったな。よし,その仇はきっと取ってやるから,ささ,直ぐに案内しろ!」
と,はや仕度(したく)をして出かけますので,狐も喜んでその先に立ち,腹をこするほどの雪路を踏み分けやがて麓(ふもと)まで来ましたが,聴水は立ち止まって,
「あれあれ,あそこに見えまする,こんもり茂った木立の中から,煙が立っておりますのが,庄屋の屋敷でござります。しかしあそこまで大王が,わざわざご出張になりましては,余計な人騒がせになるばかりか,肝心の仇の犬まで,かえって取り逃がすかもしれません。それよりは私に,よい計略がございます。ちょっとお耳を拝借いたしましょう。」
と伸び上がって金眸の耳に,何やらヒソヒソ囁(つぶや)きました。

        (二)

 さてもこの庄屋の家には,夫婦の犬が飼われていました。雄は月丸,雌は花瀬といいまして,二匹とも至って忠義な犬でしたから,庄屋も大層可愛がっておりました。
 折から丁度降りつづく大雪。雪は犬の伯母さんと言うくらいですから,二匹とも大喜びで,奥の広庭で遊んでおりますと,急に鶏舎(こや)の方で,コケーコケーと騒ぎ立て,続いてコーンコーンという,狐の鳴き声まで聞こえますから,月丸はキッと耳を立て
「さてはこの間の野狐めが,又悪事に来おったか。今度こそ許さんぞ」
と,雪を蹴(け)り立てて真一文字に鶏舎(こや)の方へと来て見ますと,案の定,狐が一匹、これを見るなり慌(あわ)てくさって,表の方へと逃げ出しました。
「おのれ逃がしてなるものか。」
と,なおも激しく追いすがって,表の門から出ようとしますと,一声オウと吼える声がして,彼方(むこう)の藪(やぶ)の小陰(こかげ)から,こちらへ向かって来る者があります。
 月丸はそれを見ると,思いがけないその敵は,自分の二倍もあろうという,恐ろしい大虎ですから,ただの犬なら尾を巻いて,その場に萎(すく)んでしまうところですが,元より強い犬ですから,そのまま虎に食ってかかり,一生懸命(いっしょうけんめい)に闘(たたか)いました。
 けれども元より飼犬は,虎の敵手(あいて)ではありません。心ばかりは猛(たけ)っても,力は次第(しだい)に衰(おとろ)えて,無残(むざん)にもその虎のために,とうとう噛(か)み倒(たお)されてしまいますと,虎はこの死骸(しがい)を咬わえたまま,遙(はる)かの山へと引きあげて,後(あと)には白い雪の上に,さながら紅梅(こうばい)の散(ち)ったような,血の痕(あと)ばかりが残りました。
 この時雌(めす)の花瀬(はなせ)は,夫の後からついて行って,初めからの様子を見ていましたが,元より自分は雌犬(めすいぬ)ではあり,殊(こと)にこの二,三か月前から,妊娠(みおも)になっていましたので,一緒に出て闘(たたかう)うことができません。みすみす夫を虎に取られて,悲しいやら悔(くや)しいやら,まるで狂犬(きちがいいぬ)のようになって,声を限りに鳴(な)き立てましたから,この声を聞きつけて,主人の庄屋(しょうや)も家内(かない)の者も,皆ここへ来て見ましたけれど,さてどうすることもできません。
 それでも一匹残(のこ)ったのは,せめてもの幸福だと,なお泣き騒(さわ)ぐ花瀬を助けて,その小屋へ帰してやりましたが,花瀬はもうこの時から,すっかり力を落としまして,食物もろくに食べず,ただ嘆(なげ)き沈(しず)んでばかりおります。
 飼主(かいぬし)は不憫(ふびん)に思って,わざわざ薬(くすり)などをやって,いろいろ親切に介抱(かいほう)しておりますと,そのうちに月が満ちたのか,ある日急(きゅう)に産気(さんけ)づいて,しばらく身を悶掻(もが)くうちに,可愛(かわい)い子犬(こいぬ)を産(う)み落(お)としましたが,普通の犬なら二,三匹か,多いのは十匹も産みますのに,この花瀬の腹(はら)からは,ただの一匹より生まれませんでした。
 これは珍しいと思いながら,よくこの子犬を見ますと,全身綺麗(きれい)な茶色ですが,その肩から背(せなか)の所には,金色の毛が混じっている,いかにもたくましい雄犬ですから,名をそのまま黄金丸とつけて,大切に育てることにしました。
 けれども母犬の花瀬は,たださえ弱(よわ)っているところへ,また出産をしましたので,急にまた容態(ようだい)が悪くなりました。
 すると,同じ庄屋の家に,牡丹(ぼたん)という雌牛(めうし)がいまして,これがまた花瀬とは,常から仲良しでありましたから,こういう時にはそばへ来て,親切に世話(せわ)をしてくれますから,花瀬は牡丹にむかいまして
「ご覧(らん)のとおりの私ですから,とても今度(こんど)は助かりませんと,覚悟(かくご)は決めておりますが,それについて牡丹の姉さん,貴女(あなた)に頼んでおきたいことがある
のです」
と,言いますと,
「どんなことか知れないが,できるだけのことはしてあげるから,遠慮(えんりょ)無(な)く言っておくれ!」
と,さも頼(たの)もしい言葉です。花瀬は苦しい息をつぎながら
「姉(ねえ)さんも知ってる通(とう)り,私の夫の月丸は,聴水狐(ちょうすいぎつね)に騙(だま)されて,虎の餌食(えじき)になったのですが,その時私は見ていながら,これを助けることもしませず,又一緒にも死ななかったのは,義(ぎ)を知る獣(けもの)の面汚(つらよご)し、何(なん)たる不甲斐(ふがい)ない犬だろうと,さだめし蔑(さげす)んでおいででしょうが,実は私はあの時分(じぶん),もうただの身体ではなく,お腹の中には月丸の,胤(たね)を宿(やど)して居たからで。なまじその時跳(おど)り出せば,この大切な子犬まで,闇から闇へ犬死させる,それが不憫(ふびん)でならないからです。ことに大切なその胤を,親と一緒に絶(た)やしてしまっては,誰が後で仇(かたき)を討(う)って,恨(うら)みを晴(は)らしてくれようかと。それを思ったばっかりに,悔(くや)しい胸を無理(むり)に抑(おさ)えて,おめおめ生き残っていたのです。そのせつない心の中(うち)は,どうぞよろしく察(さっ)して下(くだ)さい。・・・・・けれども今はその子犬も,無事に生まれた事ですから,今は思いおくこともありません。一時(いちじ)も速(はや)く私は死んで,夫(おっと)のそばへ参(まい)りますが,その代(か)わりには後に残ったあの黄金丸を,どうぞあなたのおそばにおいて,育ててやって下さいませんか。なまじ病(や)み疲れた犬の乳(ちち)より,強い牛さんのお乳で育ったら,それこそ世間並(せけんな)みの犬ではない,天晴(あっぱれ)見事(みごと)な強犬(つよいぬ)になって,見事虎とも勝負ができ,親の仇(かたき)が討(う)てましょう。・・・頼みというのはこの事です。どうぞよろしくお願いいたします。」
と,心を籠(こ)めて言いますので,牡丹はしきりにうなづきながら,
「その事ならば心配なさるな。どうせありあまる乳(ちち)ですもの,この可愛い赤ちゃんは,きっと私が引き受けて,十分育ててあげますから・・・」
「それを聞いて安心しました。ではもうこれでお別れです。」
と,にわかに心のゆるむ様子(ようす)に,
「そんならせめて今ひと目・・・」
と,牡丹は黄金丸を抱き上げて,花瀬のそばへ寄(よ)せますと,花瀬はもう目が見えませんが,わが子を胸に抱(だ)きしめて,頭から口の辺りまで,重い舌で舐(な)めまわしながら,そのまま息は絶(た)えてしまいました。

        (三)

 かわいそうに花瀬は,夫月丸の後を追って,おなじく死んでしまいましたが,後に残された黄金丸は,ようやく目の開いたばかりで,そのまま牡丹の所へ引き取られ,他の牛の子ども等と一緒に,牛の乳で育つことになりました。たださえ月丸の一粒胤(ひとつぶだね),それが牛の乳で育ったのですから,その成長の目立(めだ)って,めきめき大きくなりました。
 ことに牡丹の夫文角というのも,侠気(おとこぎ)のある牛でしたから,花瀬の頼みを堅(かた)く守って,黄金丸の養育も,我(わ)が子のように心をつけ,他(ほか)の牛の子の仲間に入れて,相撲(すもう)を取らせたり,競争をさせたり,しきりに身体を鍛(きた)えさせますと,黄金丸はそのお陰(かげ)で,まだ年こそ幼いながらも,他の年上の大犬(おおいぬ)と咬(か)み合っても,決してひけを取らないくらいになりました。
 そこで文角も,もう好い時分と思いましたから,ある日黄金丸を膝(ひざ)近くへ呼びよせ,さて最初からのことを,残らず話して聞かせますと,黄金丸は驚きまして,
「それではあなたは本当のお父さんではなくて,本当の私のお父さんは,悪い狐に騙(だま)されて,虎の餌食(えじき)になってしまったんですか。そう聞いてはもう我慢(がまん)は出来ません。直ぐに行ってその虎を,食い殺してやらなければなりません。」
と,悔(くや)しそうに立ちかけますから,文角はまたこれを止めて,
「そう思うのは道理(もっとも)だが,まあ落ち着いて聞くがよい。一体お前の親の仇(かたき)は,金眸という虎には相違(そうい)ないが,それも聴水という古狐が,自分の悪事(わるさ)を棚(たな)に上げて,手引きをしたから起こった事だ。それをあまり早まって,虎にばかり目をつけては,ひょっと勝負に負けた時,肝腎の古狐(ふるぎつね)を逃がしてしまおう,ことに金眸は名代(なだい)の大虎,もっとこちらの牙(きば)を磨(みが)き,爪を鍛(きた)えた上でなければ,容易(ようい)に名乗りかける事はできまい。それよりは機会(おり)を見て,まず聴水めを討ち取り,その上改めて金眸の,隙(すき)を狙(ねら)って攻(せ)めかけるのがいい。」
と,丁寧(ていねい)に教えてくれますので,黄金丸もようやく解(わか)り,
「これではそういうことにいたしましょう。けれどもこう解った上は,このままここにおりますのは,何分(なにぶん)にも,気がすみませんから,いっそこれからしばらくの間,お暇(ひま)をもらって野良犬(のらいぬ)になり,諸国(しょこく)をまわって色々な獣(けもの)と,咬合蹴合(かみあいけりあい)の修行をして,十分身体を鍛えた上,あの金眸に名乗りかけて,天晴(あっぱ)れ仇を討ちとうございます。今までお育て下さいました,そのご恩(おん)も返しませんうちに,こんな勝手な事を申して,まことに申し訳ございませんが,これも親のためでございますから,どうぞお許し下さいませ!」
と,思い込んで頼みますと,文角はニッコリ笑って,
「オオよく言った。それでこそ月丸さんの子だ。実はお前
が言わなければ,強いても勧めようと思ってたところだ。何の遠慮がいるものか。今からでもすぐに立って,その修行をしてくるがよい。」
と,快く許してくれましたから,黄金丸は勇み立って,善は急げとすぐに支度(したく)し,
「見事(みごと)親の仇(かたき)を討って,金眸の首を取らなければ,二度とお屋敷(やしき)へは帰りません。」
と,健気(けなげ)にも言葉を誓(ちか)い,養親の文角と牡丹に,懇(ねんご)ろに別れをつげ,その日から屋敷を出て,わざと宿(やど)なしの野良犬になりました。

         (四)

 さて黄金丸は,折角かわいがられて飼(か)われていた,庄屋の家を出てしまいますと,その日からもう首輪(くびわ)のない,宿なし犬の事ですから,食べるにも自分で餌(えさ)を漁(あさ)り,寝るにも自分で寝ぐらを探さなければなりません。ですから,魚屋の荷(に)の前をうろついて,天秤棒(てんびんぼう)で追い立てられたり,肉屋の車の後(うし)ろにつけて,小僧(こぞう)に石を投げつけられたり,又ある時は犬殺師(いぬごろし)に狙(ねら)われて,あぶなく命を取られようとしたり,それこそひと通りの苦労ではありません。こうして幾日(いくにち)かおくるうちに,ある日大きな野原へ出ましたが,いくら行っても里(さと)へ出ず,そのうち日も暮れかかって来ますのに,宿を取る木陰(こかげ)もありません。
 ことにその日は,朝からろくに水も飲まず,食べ物とても見つかりませんので,その空腹(ひもじ)さもひと通りではありませんから,仕方がなしに草の上にへたばり,しば
らく息を入れておりますと,今度は何だか寒気がしてきて,なんとも言われない苦痛を覚えました。
「さてはいよいよこんな所で,俺(おれ)は野たれ死をしてしまうのか。この間文角さんに別れて,所々方々とまわるうち,随分いろいろな獣にあっても,ついに一度も負けたことはないが,この空腹という敵には,さすがの俺も歯が立たない。ああ,情けない,俺の身体は,このままこの
野原に腐(くさ)って,仇の狐にさえ会わんうちに,烏(からす)の餌食(えじき)にされてしまうのか。エエ,残念な事だなあ。」
と,身をふるわして泣いていました。
 すると,どこから来ましたか,一団(ひとかたまり)の鬼火(おにび)の光が,パッと目に映(うつ)りましたから,思わず頭をあげて見ますと,これが又フワリフワリと,あるいは高く,あるいは低く,宙(ちゅう)を舞っている様子が,何だか自分を招(まね)くようにも思われます。黄金丸は心のうちに,
「さては死んだお父さんが,私を助けに来てくれたのか。」
と,思うと急に力が出まして,その鬼火を拝(おが)みながら,そばへそばへと寄ってゆきますうちに,いつか四五町(約五キロ)来てしまいました。
 この時たちまち耳近く,ズドーンと恐ろしい銃声(じゅうせい)がしましたら,その途端(とたん)に鬼火は消えて,見ると自分はいつのまにか,大きな古寺の門の所におります。
 さては今夜この中で,一夜の宿(やど)を借(か)りろというお託(つ)げかと,黄金丸は門を入って,中の様子を見まわしますと,正面には大きな本堂がありますが,それももう壁(かべ)は落ち、軒(のき)は傾き,柱は朽ち,縁(えん)は腐って,見る影もない廃寺ですが,その前の石畳(いしだたみ)の上に,一羽の雉子(きじ)が仰向(あおむ)けになって,バタバタ苦しんでおりますから,こりゃ好い物が見つかったと走りよってグッと抑(おさ)え,すでに口をつけようとしますと,後の方から大声で,
「コリャ盗賊(どろぼう)犬め!」
と,吠(ほ)える者があります。
 何者かと振り向きますと,それは真っ白な猟犬でしたが,こっちを見ると牙を剝(む)いて,今にも飛びかかろうとしております。黄金丸も身構え
「盗賊犬とは失敬(しっけい)な!」
と言いますと,
「失敬とは貴様の事だ。おれの旦那が撃(う)った雉子を,断りもなく食おうとするから,盗賊犬と言ったがどうした。」
「それでは先刻(さっき)の銃声は,この雉子を撃った音か。」
「今となってとぼけるな。見れば首に首輪もない,ずうずうしい野良犬め!貴様のような奴がいるからこそ,犬殺師が世間に増えて,俺たちまでが迷惑(めいわく)するのだ。」
「言わせておけば無礼な吠言(ほえごと)。重(かさ)ねてぬかすと勘弁(かんべん)せんぞ。」
「そりゃこっちから言うことだ。生意気言って怪我をするより,その鳥渡してはやく逃げろ。尾を捲く奴は許してやるわ。」
「何をこしゃくな,ウ,ワンワン!」
「ワンワンワン!」
と言ううちに,二匹は双方から飛びかかって,上を下へと咬み合いましたが,どっちも劣らぬ強犬(つよいぬ)ですから,互いに挑(いど)み闘うはずみに,風を起こし,砂を蹴立(けた)てて,その勢いの凄(すさ)まじさ、まるで獅子(ライオン)の狂うようです。
 ところが丁度この前から,彼方(むこう)の木の陰に身を潜(ひそ)ませて,様子を見ていた奴があります。それは真黒な野良猫(のらねこ)でしたが,今しもこの二匹の犬が肝腎の獲物をそっちのけにして,夢中になって咬み合っていますので,こいつはしめたと思いながら,ぬき足さし足忍(しの)びより,石畳の上に置いてあった,雉子の死骸(しがい)をくわえるより速く,まるで兎(うさぎ)の逃げる
ように,彼方(むこう)の塀へとかけ登りました。それを見たこちらの二匹は,
「おのれっ!」
と,声をかけましたが,先方は高い所ですから,はては互いに顔を見合わせ,今まで咬み合っていたその口を,あんぐり明けたまま呆(あき)れております。

         (五)

 ああ,馬鹿(ばか)なことをした。私ら二匹が喧嘩(けんか)さえしなければ,あんな野良猫に馬鹿にされて,おめ
おめ獲物は盗(と)られはしまいにと,思うと黄金丸も猟犬も,今は咬み合う張合(はりあい)もぬけて,そのまま牙を納(おさ)めましたが,それにしても先刻(さっき)からの喧嘩で,よくよく強い黄金丸の働きにつくづく感心した猟犬は,改めて言葉も丁寧に,
「一体お前さんはどこから来なすった。何と言う犬さんなのだ。私も今までいろいろな犬と,随分咬合はしてみたが,まだお前さんのような強い犬に,一度も出くわしたことがない。」
と,言い出しますと,黄金丸も同じく感心して,
「イヤ,そういう君こそ今までに,かつて経験のない強い犬だと,実は先刻(さっき)から驚いていたくらいだ。何を隠そう,僕は名を黄金丸と言って,元はあるお屋敷に奉公し,門番をつとめた者だが,少し心願があって暇をもらい,わざと野良犬になっているのだ。」
と,はじめて名乗りますと,猟犬もうなづいて,
「なるほど聞けばそうありそうな事だ。私はまたご覧のとおり,猟師に使われる猟犬だが,ある時大鷲を生捕(いけどり)にしてから,鷲を捕った白犬というので、名を鷲郎(わしろう)と呼ばれている。自分で言っちゃあおかしいか,これでも猟犬仲間には,誰も敵手(あいて)になる者もない,一番強い犬のつもりだったが,今日という今日お前さんに会って,何だか天狗(てんぐ)の鼻を折られたようだ。どうかこれを縁にしてこれから仲良くしてくれたまえ。」
「それは僕の方から言うことです。」
「それにつけても今の話の,お前さんの心願というのは,一体どんなことなのです?」
と鷲郎が尋ねるので,黄金丸はあたりを見まわし,
「それでは話すから聞いてくれたまえ!」
と,これから父の殺されたこと,牛に引き取られて育ったこと,はては金眸の大虎と,聴水狐とを仇とねらって,こうして諸国を修行していることを,詳(くわ)しく話して聞かせますと,鷲郎はいよいよ感じ入って,
「聞けば聞くほど偉(えら)い犬さんだ。それなら私も及ばずながら,お前さんの兄弟分になって,力を添(そ)えることにしよう。あの金眸には恨みはないが,あいつは自分の力をたのんで,世の獣類(けだもの)を勝手に苦しめ,そればかりか時々は,人間のいる里へも来て,善くないことをする奴と,常から憎んでいたところだ。お前さんが親の仇と言うなら,私には仲間の敵だ。是非とも一所に退治してやろう。」
と,さも頼もしく言いますので,黄金丸も喜びまして,
「君までがそう言ってくれるとは,何と言う嬉しいことだろう。ああ,これこそ亡父さんの引合せ,先刻(さっき)の鬼火の案内したのも,まったく君を知らせてくれたのだ。」
と,今さらのように前足を上げて,死んだ父親を拝みました。と,又鷲郎は,
「しかしこうして約束が出来て,虎退治に向かうとなっては,なまじ主人のあるのは邪魔だ。私も,今日から野良犬になろう。」
と,言いかけますから,黄金丸は,
「イヤ,それでは僕のための義は立っても,主人のためには不忠になる。どうかそんな事はよしてくれたまえ!」
と止めましたが,
「なんの,それはいらん心配だ。考えれば今までに,たとえ主人のためとは言え,おなじ仲間の罪もない,兎や鹿を追い立てたのは,全く私の本意ではなかった。機会があったら足を洗って,罪滅ぼしをしたいと思っていたが,今日こそいよいよ時節(じせつ)が来た。もう私は猟犬(かりいぬ)ではないぞ。」
と,言ううちにもう首輪をば,自分でプツリと引き切って,その決心を見せますので,黄金丸もいよいよ頼もしく,
「アア,天晴れの君の覚悟,僕も大いに力を得た。この上は二匹とも,幸(さいわ)いのこの古寺を,誰も主(ぬし)がないようだから,しばらく棲所(すみか)にしようではないか。」
と,やがて二匹は連れ立って,古寺の奥へと踏(ふ)み込み、その方丈(ほうじょう・住職の居所)とも思われる所に,まだ古畳の残っているのを,そのまま自分たちの寝床(ねどこ)にして,ここに住み込むことにしました。

 

  つづく