北口雅章法律事務所

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「信長公記」が描く「長篠の合戦」

心臓の鼓動が突如止まるごとく,
私の時計の針が,突如,止まった。

単に「電池切れ」を起こしただけのことなのだが・・・。

そこで,

「桜山」(名古屋市昭和区)近くの時計屋さんに立ち寄って,地下鉄桜山駅から地下鉄に乗ろうと,

地下道を通っていくと,名古屋市博物館所蔵の「長篠合戦図屏風」の部分写真が,

壁に貼られているのが目についた。

 

「長篠の合戦」といえば,天正3年(1575年),三河国・長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐって,織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊が,武田勝頼の騎馬隊を破った合戦として知られる。

いくらなんでも,至近距離から歩兵を撃つのは,酷いのでは?

 

かねてより,信長の側近・太田牛一が描いた信長の伝記「信長公記」を読んでみたいと思い,その現代語訳(中川太古訳「地図と読む 現代語訳 信長公記」)を購入してあるのだが,なかなか読む時間がない。

せっかく,「長篠合戦図屏風」の部分写真を見たので,
「信長公記」の「長篠の合戦」の部分だけも読むと,・・・
武田勝頼は,「鳶の巣山」(鳳来寺山)に陣取り,長篠方面に攻撃部隊を七隊派遣したのに対し,織田軍は,足軽隊を敵陣近くまで攻め掛からせて,敵方を挑発し,攻め太鼓を打って,武田軍が騎馬で突撃してきたところで,足軽隊は引き,鉄砲を撃ち込み,また,武田軍が退却したら,足軽隊で挑発し,再度,騎馬武者が突撃してきたところを鉄砲が炸裂するという,という戦法だったらしい。
 そして,武田方の軍勢が弱まり,本陣に向かって退却しかかったところを,一斉に追撃して,約一万の軍勢を討ち取ったとのこと。討ち取った首は,著者に見知った者だけでも,・・・・,と合計19名の名前が連なり,あるいは山中に逃げ込んで飢え死にした者,あるいは橋から川へ落ちて溺死した者は数知れない,という。
 この結果,徳川家康は,三河・遠江(静岡西部)二国の支配を承認されたという。

やっぱり,鉄砲隊に対しては,甲冑で身を固め,楯を連ねて防御に徹しないとだめだな。

 

たとえ,騎馬隊で突撃するにしても,甲冑で身を固めた上で突撃しないとなぁ。
昔,学生時代にみた,
セルゲイ・エイゼンシュタイン(Sergei Eisenstein)監督のソ連映画
「Александр Невский (アレクサンドル・ネフスキー)」
に出てくる騎兵隊の如くに。