北口雅章法律事務所

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5分で解る「釈迦(ブッダ)」の人生航路

上掲地図(大角修「日本仏教の基本経典」角川選書より引用)の中の地名につけた赤丸の番号と,黒丸●の近くにつけた緑色の四角で囲んだ番号は,同じなので,その番号の順番に,地図上の位置を確認してもらいたい

「ルンビー(①)」は,釈迦の生誕地(この地では,アショカ王の建てた石柱がみつかっている)。ここで,注意が必要なことは,その生誕地は,ネパール国内にあるということ。
「ルンビー(①)」の近くに黒丸●が二つあり,
北側の●が「ピプラワー(カピラヴァストゥ?)」
南側の●が「ティラウラコート(カピラヴァストゥ?)」
と書かれている。実は,ゴータマ・ブッダを生んだ王族(釈迦族)の居住地(カピラヴァストゥ)には,二説があって,ネパールの考古学者は,ネパール領内の「ピプラワー」=「カピラヴァストゥ」(A説)をとり,インドの学説は,インド領内の「ティラウラコー」=「カピラヴァストゥ」(B説)をとる。A説によれば,釈迦=ネパール人,B説によれば,釈迦=インド人ということになるが(いずれにしてもアーリア人だと思われるが。),A説の根拠は,この地に古代都市(集落)の遺跡が見つかっていることだが,B説の根拠は,「ティラウラコー」で釈迦の遺骨が発見されているからだ(この遺骨の一部が,名古屋市内にある覚王山日泰寺に納骨されている。)。

②釈迦は,ヤショダラ(婦人)との間で長男(ラーフラ)をもうけた後,王宮を出て,出家=修行のため,マガダ国の首都,「王舎城(②)」=「ラージキール」に移動して,この地にあるパンダヴァ山(霊鷲山)の洞窟で修行する。

次いで,③ネーランジャー河(尼連禅河)の辺(ほとり)で修行を続け,
ついに,「ブッダガヤ(③)」菩提樹のもとで悟りを開く。

その後,釈迦は,伝道の旅に出て,「ベナレス(④)」に行き着く。
が,よく見ると,「ベナレス(④)」は,ガンジス河の北側にある。
つまり,釈迦は,ネーランジャー河(尼連禅河)を北進し,パトナ(パータリプトラ)辺りで,ガンジス河の南岸沿いを西進したが,「ベナレス(④)で,ガンジス河を南岸から北岸に渡ったと考えられる。仏典によれば,ここで空中浮遊の奇跡を起こしたようだが,現実は,泳いだか,小曾という名の船頭が小曾っと渡したに違いない。

ベナレスの郊外には,「サーナルート(⑤)」がある。
これをパーリ後で「ミガ(鹿)ダーヤ(苑)」(=鹿野苑)という。
京都・金閣寺の正式名所「鹿苑寺」は,この地に由来する。
この地で,釈迦は,五人の旧友に教えを説いて,弟子にし,ここに仏教教団が成立した。
そして,「苦集滅道(くしゅうめつどう)」「四諦(したい)」の教えを説いたという。

そして,釈迦は,「サーナルート(⑤)」から「ベナレス(④)に戻り,この地でも伝道し,さらに「ブッダガヤ(③=⑥)」近くの象頭山でも伝道している。

次いで,釈迦は,「舎衛城(⑦)」に長く滞在している。
この地の郊外に小高い丘があり,この丘の滞在地こそ「祇園(ぎおん)」であり,スダッタ長者の寄進で建てられたお寺が,平家物語で馴染みのある「祇園精舎」である。

そして,釈迦の人生最後の旅路は,「マハー(偉大な)パリニッバーナ(入滅)スッタンダ(経)」という仏典で描かれているとおり,「王舎城(②=⑧)」に始まり,「パータリプトラ(⑨)」→(ガンジス河を渡って)「ヴァイシャーリー(⑩)」「クシナガラ(⑪)」と,生まれ故郷(①ルンビニー)を目指すかのように北進する。
そして,「クシナガラ(⑪)」が釈迦臨終の地となるが,
ここで,釈迦は,食中毒のため,動けなくなり,修業者・スバッダに最後の説教をする。「スバッダよ。私は二九歳で善を求めて出家した。私は出家してから五〇年あまりとなった。『正理(正しい道理)』と『法(ダルマ)』のみを歩んできた。」と。ちなみに,釈迦の食中毒の原因については,豚肉説(パーリ語経典)とキノコ説(漢訳経典)に分かれるらしい。

 (参考:中村元「ブッダ入門」春秋社・1500円也)