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昭和天皇は,何故,靖国参拝を止めたのか。

昭和53年(1978年),「東京裁判」でA級戦犯として処刑された14柱が,靖国神社に合祀された。そして,昭和50年の行幸を最後に,それ以後,昭和天皇は,靖国参拝への行幸をされていない。

この理由を述べた昭和天皇の発言について,富田朝彦(当時宮内庁長官)が昭和63年4月28日付けで書き留めておいたメモ(「富田メモ」)が,昭和天皇崩御の後,18年も経過した後,平成18年(2006年)7月30日付け日経新聞・朝刊トップで報じられた,とのこと。

「私は,或る時に,A級(戦犯)が合祀され,その上,松岡洋右・元外務大臣),白鳥敏夫・元駐イタリア大使)までもが(合祀された)。筑波(前任宮司)は,慎重に対処してくれたと聞いたが,松平(A級戦犯を合祀した宮司)の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と,松平は平和に強い考えがあったと思うのに。親の心子知らずと思っている。だから,私あれ以来参拝をしていない。それが私の心だ。」と。

松岡洋右は,1933年(昭和8年),満州事変の後に,国際連盟を脱退したときの全権大使であり,『昭和天皇独白録』でも,昭和天皇から「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないか」と酷評されている。白鳥(敏夫・元駐イタリア大使)は,松岡とともに,日独伊三国軍事同盟の推進者であり,昭和天皇は,この同盟に反対であった,という。

 

昭和20年9月9日(終戦直後),昭和天皇が,明仁・皇太子(今の上皇)に宛てた手紙には,次のことが書かれている

「・・・敗因について一言はしてくれ。
我が国人が,あまりに皇国を信じ過ぎて,英米をあなどったことである。
我が軍人は,精神に重きをおきすぎて,科学を忘れたことである。明治天皇の時には,山県(有朋),大山(巌),山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが,今度の時は,あたかも第一次世界大戦の独国の如く,軍人がバッコ(跋扈)して大局を考えず,進むを知って,退くことを知らなかったからです。
 戦争をつづければ,三種神器を守ることも出来ず,国民をも殺さなければならなくなったので,涙をのんで,国民の種をのこすべくつとめたのである。・・・・」

東条英機も,山本五十六も,昭和天皇の信望を得ていなかった,とみえる。

 

(若かりし頃の,エリザベス女王)

 

(引用)別冊宝島「昭和天皇秘録」