北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

万葉集4巻655番「邑礼左變」の含意

万葉集には,大伴宿禰駿河麻呂の相聞歌(恋歌)に
思はぬを思ふと言はば天地(あめつち)の神も知らさむ邑禮左變
というのがある(第4巻655番)
末句の「邑禮左變」には定訓がなく(いわゆる難訓歌),それ以外の部分の[現代語訳]は,「あなたのことを思ってもいないのに,口先だけ思っていると言ったとしたら,天地の神様は,その嘘をお見通しでしょう。」という意味になる。
では,「邑禮左變」は,どのように読み解くのが適切か。

ちなみに,「邑禮左變」について,私の手元にある「日本古典文学大系・萬葉集一」(岩波書店)289頁には「未だ定訓を得ない」とあり,「新日本古典文学大系・萬葉集一」(岩波書店)389頁には「結句の四文字は解読不能」と書かれ,「新潮日本古典集成・萬葉集一」(新潮社)には「末句には独自の意味が盛られているらしいが,この句,定訓がない。」と書かれている。

そこで,上野正彦先生(本職・弁護士)の「万葉集難訓歌」(学芸みらい社)を紐解くと(70頁以下),「邑禮左變」を「里例さ反す(さとれいさかえす)」と読み,歌全体としてはは,「結婚する気もないのに,あなたを思っていると言えば,天地の神様もそれを知って罰を下すでしょうし,また里例の定め(里に住む男女の結婚に関する規定)に反することになるでしょう」と解釈されている。

だが,私は,この上野説には賛同できない。
第1に,何だか恋人どおしで味わう歌というより,意味解釈が法律家的な道徳臭さ・硬直さを感じさせるし(恋歌で,「神罰が下る」と「婚約違反」という二重の否定評価を歌で詠むか?),やや技巧的ではないか。第2に,「字余り」ではないか。

では,どのように読むのが素直か?

大伴宿禰駿河麻呂の上記相聞歌(4巻655番)は,実は,653番からの連作である。そこで,前の2句を合わせ読むと,大伴宿禰駿河麻呂の性格は,おおよそ見当がつく。かなり堅物(真面目)で,シャイ(shy)な性格でありつつ,女心をくすぐる才気も感じさせる。

[653番]心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経(へ)にける
[現代語訳]心では,あなたを忘れることはないのに,思いのほかお逢いしないまま,ずるずると一ヶ月も経ってしまった。

[654番]相見ては月も経(へ)なくに恋ふと言はばをそろと我れを思ほさむかも
[現代語訳]お逢いしてからまだ一ヶ月も経っていないのに,「恋しい」と言えば,私のことを「軽い男だ。」と思うだろうね。

しばらく,会えなかった言い訳をしているのだ。
誰に言い訳するのか? 
相聞歌のお相手は,恐らく「額田王以来の才媛」にして,恋多き乙女の,大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)。大伴坂上郎女の相聞歌には,秀歌が多いが,大伴宿禰駿河麻呂の上記三首の対する大伴坂上郎女の返歌6首のうち,一番情熱的な歌は,次の歌であろう。

[661番]恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽(ことつく)してよ長くと思はば
[現代語訳]逢いたい逢いたいと思ってやっと逢えたその時くらい,お優しい言葉のありったけをかけて下さいな。いつまでも添い続けようと思っていらっしゃるなら。

このような情熱的な女性を相手に,恋心で嘘をついてはいけません。天罰がくだりますから。どんな?神罰がくだるのでしょうか。その答えが「邑禮左變」ではないでしょうか。

上記お二方は,都会的に洗練された方々なので,「邑」には,都会の反対=「里」=「鄙」の意味はないと思われる。となれば,「音(オン)」だけを抽出して,「邑(サト)」「禮=礼(レ)」と訓むと,「邑禮(サトレ)」=「悟れ」の意となる。つまり,天罰=神罰がくだるものと「悟れ」という意味になる。上野先生の御著を読み返したら,この二文字の私の解釈は,なんと「契沖」(江戸時代の真言宗の僧侶にして,万葉集の研究者)の解釈と同じだった。
では,どのような天罰=神罰か?「左變」=「左変」とくれば,「左遷」と理解するのが素直ではないか。「変」と同じ意味の言葉を重ねる熟語には,「変化」,「変遷」,「変転」などある。「左遷」の意味で,「左變」と表記したとすれば,変則的な訓みかもしれないが,「サコロブ(左転ぶ)」と訓むのはどうだろうか。

[私の試訓・私訳]は,
「思はぬを思ふと言はば天地(あめつち)の神も知らさむ悟れさ転ぶ」
「君のことが好きだと言ったでしょう。嘘じゃないよ。このような真面目なことで嘘などついたら,罰があたって左遷され,地方に飛ばされてしまいますからね。」