北口雅章法律事務所

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国宝「秋草文壺」は,渥美半島(愛知県)の窯(かま)で焼かれたものか

愛知県には,壺・陶磁器の生産地として,全国的にも著名な産地がある。
常滑市(常滑焼)と,瀬戸市(瀬戸物)だ。
だが,陶磁器分野での国宝第1号「秋草文壺」(慶應義塾所有・東京国立博物館蔵)については,かつて,常滑古窯説が有力であったが,近時は,渥美古窯説(つまり渥美半島産という説)が有力となっているということが,著者である小川雅魚先生からいただいた御著『金曜日の戦い』(風媒社)所収「壺中風紋録抄―秋草文壺をめぐって」(以下「本稿」という。)に書かれていた。

 本稿の出だしは,著名な写真家・土門拳(土門拳は,私の高校時代の生物の教諭=恩師が大のファンだったことから,彼の写真集は,私も持っている。)のエピグラム,「日本のやきものの中から,ただ一点を選ぶとなれば,ぼくは秋草文の壺を選ぶ。雄渾にして繊細,重厚にして華麗,日本のやきもののありとあらゆる魅力を一身に担っているのである。」土門拳『古窯遍歴』)が引用されており,陶磁器の趣味をもたない私でも,思わず引き込まれた。

このような土門拳が礼讃する,国宝級の壺について,土門拳の論考では,常滑(とこなべ)古窯説を前提に記載されているが,田原市博物館の学芸員である増山禎之氏の論考によれば,徐々に渥美古窯説が有力となり,ついに「ある一つの決定的な証拠が出現して,常滑から渥美へと劇的にひっくり返った・・・」と書かれているので,思わず「ある一つの決定的な証拠」って何だろう?と思い,速読のスピードをさらにアップさせて,フムフムと頷きながら読み飛ばしていくのだが,本稿を読み終わって,「あれ?『ある一つの決定的な証拠』なんて何処にも書かれていないではないか? おかしいなぁ・・・」と思って,前に戻ると,「ある一つの決定的な証拠が出現して,常滑から渥美へと劇的にひっくり返った」に続く文章(「・・・わけではなく,いわば状況証拠のつみかさねて,秋草文壺渥美古窯説が『総合的に』有力になってきたのであった。」を読み飛ばしているのに気づいた。

小川雅魚先生が,諸文献を渉猟して要約されたところによると,
秋草文壺・渥美古窯説の根拠となる「状況証拠」は,次のとおり(なお,本稿のネタは,これに尽きるものではないし,本稿は論文集,否,「20世紀畸人伝」のうちの一章に過ぎないので,興味のある方は是非読んで頂戴。)。
第1に,円空仏のコレクターとしても知られる本多静雄氏が,愛知県三河の足助町の方から「黒い壺」を譲り受けたが,その炭化の度合いから平安末期か鎌倉初期のものと考えられるところ,その頸作りや口端の特徴が,当時の常滑焼きの壺や甕とは異質の形状であると喝破されたこと,
第2に,昭和38年(1963年),田原町(渥美半島)で発見された二十数個の骨董壺のうちの2つに「黒い壺」と同様の蓮弁文が確認されたこと,
第3に,昭和二十年代からはじまった豊川用水の敷設工事に際して,土地を掘削した際に,渥美半島全域に五百近い窯跡が発見され,その中には,「藤原顕長」の銘が入った破片が出てきたこと(したがって,平安末期の製造と推認される。),
第4に,「線描による草花や小動物などの表現は渥美窯にみられる1つの特徴」であるとされていること(安井俊則『世界陶磁全集3日本中世』講談社),
第5に,渥美半島の土は鉄分が多く黒くなりやすいとのこと,
等の諸事情があげられよう。
 これだけの「状況証拠」があげられれば,やはり秋草文壺・渥美古窯説が正当であろう,と素人ながらに思う。

 

小川雅魚著『金曜日の戦い』(風媒社)は,一応は読み終えたので,早いところ,感想文を添えて,雅魚先生に礼状を書かねばならないのだが・・・