北口雅章法律事務所

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神岡町の円空―地図でたどる事跡(和歌と神仏像) 後編

承前―つづき

 

【笈破(おいわれ)】

人知らぬ世に笈破(おいわれ)の山なれや菩薩ふ誓(ちかい)(ましま)
(原文)人しらぬ世においわりの山なれやササふ誓在す[六六三]

[分析]「世に」は、「世の中」の意味ととると、本歌では意味が通じない。下に打ち消しの表現を伴って「決して・断じて」の意に用いる語法もあるが、ここでは、「人知らぬ」という打ち消しの発句を強調している語と考えられる。
[大意(解釈)]人々は決して知らないであろうが、笈破の山にも「菩薩=護法神」が御座し、護法の誓い(幾度も耐えてもたるる法の道を護持しようという誓い)をなされていますよ

 

【漆山(うるしやま)】

作りたつ漆の山の神□在や幾万代(いくまんだい)に御形(おすがた)再拝(おがまん)
(原文)作りたつ漆の山の神□在や幾万代に御形再拝[六六二]

[参考]修験道では、修験者が、山中で岩や木に「山の神」の神霊を感得して権現として祀ったとされ、修験者の峰入は、その「山の神」と合体して、その力を得ることにある、とされている(宮家準「修験道小事典」法蔵館参照)
[大意]漆山の地で、「山の神」の像ができあがった。何万年も、この「山の神」のお姿を拝みましょう。

 

飛騨の国作る仏の小刀も 漆の渕(ふち)に納ぬる哉
(原文)飛たの国作る仏の小刀も漆の渕ニ納ぬる哉[六六四]

[大意]この飛騨の地では、随分と多くの仏像を彫った。この彫像に使った小刀もそろそろ替え時がきた。そこで、漆山の麓(ふもと)を流れる神通川の渕(龍神の御座す、水流が淀んだところ)に奉納するとしよう。

 

漆山御地の龍の燈(ともしび)は菩薩ふ(あまねくすくう)天地(あめつち)の神
(原文)漆山御地の龍の燈はササふ天地の神[三〇一]

[大意]漆山の地に、龍神様に奉る灯明(とうみょう)が灯っています。この灯明に感応して、衆生を救済する龍神様が降臨されて御座します。

 

⓫【土(ど)】

ドウといふ止(とどま)る馬の足絶(たえ)て いさ(勇)みにかく(隠)る法の橋哉
(原文)堂といふ止る馬の足絶ていさミにかくる法の橋哉[九七一]

[分析]「ドウ」は、馭者が馬を制御する際に発声する「ドウドウ」の「ドウ」と「堂(ドウ)」=「土」(地名の「土(ど)」)とが掛詞になっている。「かくる」は、「隠れる」と「(橋が)架くる」との掛詞の可能性もあるが、「か(架)くる」と理解すると、馬が止まると、何故、(法の橋が)架かるのかについて説明がつかない。したがって、「か(架)くる」の方は、単に「法の橋」の縁語とみるべきであろう。
[大意(解釈)]「ドウ」という馭者の発声とともに馬の足音が止まり、ようやくあたりは静かになった。ドタドタと蹄の音(勇み足)がしていたのでは、「法の橋」(仏道)は消失してしまう(隠る)からなあ。また、辺りが静まり、気持ちが落ち着いたところで、「法の橋」を渡るとしよう。

観音菩薩(個人蔵)

 

⓬⓭【茂住(もずみ)】

茂住(もずみ)なる谷の藤橋(ふじはし)(むすぶ)らん 山織姫の幡(はた)かとぞ見る
(原文)もすミなる谷の藤橋結らん山おり姫の幡かとそミる[九七二]

[大意]茂住の谷間には、藤の蔓で拵(こしら)えた「藤の吊橋 」が架かっています。まるで、山織姫(山に住む織姫様)が機織りをしているようです。
[注記]藤井郁夫「日本の吊橋の変遷について」によると、飛騨山地北部には、「越前越え」の街道要所に「藤の吊橋(藤蔓橋)」が架かっていたらしい。「越中越え」街道に連なる神岡町も同様であろう。

 

 

左:阿弥陀如来(東茂住・金竜寺蔵)
右:釈迦如来(西茂住・個人蔵)

 

【横山(よこやま)】

深山(みやま)の木を倒して入る横山の 作る家の峰の数々
(原文)深山ノ木をたおして入る横山ノ作る家のミねのかすかす[九七〇]

[大意(解釈)]横山の地では、奥深い山の中を木を倒しながら前に進む。ふと振り返ると、山の麓(ふもと)の方には、横山部落の家々が峰々のように立っているのが見える。あの家の一軒一軒で、私は、一つ一つ丹念に仏像(観音菩薩)を彫ったのだ。

 

⓮【中山】


観音菩薩(個人蔵)

 

⓯【谷】


観音菩薩(個人蔵)

               以上(「神岡町における円空の事跡」完)