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「奈良の象徴」と「京都の象徴」

「奈良の象徴」といえば、やはり「興福寺の五重塔」であろう。

読売新聞によると、
「奈良の象徴」である「興福寺の五重塔」の大規模修理が行われるという。

 

「奈良の象徴」が「興福寺の五重塔」であるならば、
「京都の象徴」は、文句なく「東寺の五重塔」であろう。

 

出張先を往復する途上、新幹線で京都を通過するとき、南側の車窓から見えてくる五重塔こそ、「東寺の五重塔」である。このとき、ある種の感慨をもつ。「京都らしいなぁ…」と。同様の感懐は、梅原猛先生も御著に書かれている。曰く「京都に住む私は、月に一、二度は東京に行かねばならない用事がある。用事をすますと、さっさと帰ってくることにしているが、新幹線の南窓の西に東寺の五重塔が見えると、京都に帰ってきたという安心感がわく。東寺の五重塔は現代でも京都へ入る目印になっているが、昔もそうであったろう。平安京の正門の羅生門の東にそびえる東寺の五重塔を見ると、人はつくづく都に来たという実感を持ったに違いない。」(「京都発見七 空海と真言密教」新潮社)。

ここで、ふと「南窓の西に」という表現にひっかかる。京都を徘徊すると、確かに東寺は、京都駅の南西にあるし、御所からみても、南西にある。なのに、何故「東寺」なのか?。実は、古地図でみると、平安時代当時、平安京の中心である大内裏=御所は、現在の御所よりも西側にあったのだ。

 

だが、実は、「京都の象徴」である「東寺の五重塔」(国宝)とはいえ、現在の塔は、寛永21年(1644)、徳川家光の寄進で建てられた五代目の五重塔だそうで、これまで、雷火や不審火で4回焼失している、とのこと。大日如来の御加護は得られなかったのであろうか? これも有為無常・有為転変の理(ことわり)か。

 

「初代の東寺・五重塔」は、弘法大師・空海の発願・勧進(=募金集め)に始まる。
性霊集には、天長三年(826)11月24日、おそらく、嵯峨上皇か淳和天皇にあてたとみられる上表文が収録されている。

曰く「御上が仏法僧の三宝を興隆されることは、上はご先祖に対する御孝養であり、下は万民に対する御仁徳です。徳の集まるところは、塔がその最たるもので、大日如来のよろずの徳がそこに結晶することを示しております。この故に、塔を建立すれば、その御利益は尽きることがなく、その功徳によって、近くは死後に「人天の王」となることができるし、遠くは「法界の帝」(仏)となることができる。…
 今、塔建立の用材を、近所の東山で確保し、僧ら一同と人夫らと材木の運搬を始めたが、用材が巨大で、曳く力は微弱であり、運搬に難渋を極めております。喩えていえば、蟷螂(かまきり)がいきりたって牛車に向かうがごとく、また、蚊や虻(あぶ)が山を背負わんとふんばるがごときで、到底その任にたえません。…
 今なにとぞ六衛府や八省の公官吏・各宮家・左右京職の役人たに御下命せられて、協力・助勢せしめたまえ。……。なにとぞご慈悲を賜り、関係諸役所に御下命あらんことを。」と(空海全集・第六巻597頁以下参照)。

ところが、愚管抄・巻第六(講談社学術文庫319頁)によると、
後鳥羽天皇在位1183-1198)は、文覚上人と重源上人に播磨国・備前国を与え、「…東大寺の再建を急いで進めなければならない。また、東寺は弘法大師の御建立になり、鎮護国家のために果たした功績はたぐいのない御寺であるというのに、今は寺もないような有様になっているこれも再建しなければならない。」と申されたとのことで、源頼朝が東寺の興隆・再建に寄与した旨のこと記載されている。したがって、「初代・五重塔」は、あっけなくも儚くも、鎌倉時代に入る前に、既に焼失していたことになる。

弘法大師・空海の遷化後の法力は、届かなかったらしい。
弘法も、興亡に、抗防できない。