北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

寺田逸郎・最高裁長官に物申す!!  *注記追加

 名古屋刑務所事件・放水事件(確定審)において,私は,主任弁護人として,

第1審(柴田秀樹裁判長)に続き,控訴審(田中亮一裁判長)でも,

顎が外れるような,非常識な事実認定のもとに有罪判決を受けた。

そして,即座に,最高裁判所に上告し,この事件が最高裁に係属した際,

私は,すぐさま最高裁の担当書記官に直接電話をし,担当裁判官(裁判長のお名前)を照会・確認した。

名古屋刑務所事件の「おぞましき実情」

---水道水の蛇口をひねって出したシャワー程度の低い水圧[60kPa]を人体にかけたことで

   肛門から人間の体内に向かって,水流が逆流して,直腸を破裂させた???!!!---

につきましては,本ブログ冒頭の名古屋刑務所事件」の文字をクリックして,是非是非,動画でご覧・ご確認ください!!!。)

担当書記官は,電話口で答えた。「近藤崇晴です。」と。

私は小躍りして喜んだ。「頭脳明晰」で知られ,私の「尊敬」する

近藤崇晴・最高裁判事・裁判長」であれば,

必ずや,原判決の科学的ナンセンスと,恥ずべき欺瞞を喝破し,破棄・無罪の判決をくだされるに違いない!

と確信したからだ。


 
 ところが,その後まもなくして,事態は暗転した。

 平成22年11月,近藤最高裁判事は,思いがけず間質性肺炎のために急逝されてしまったのだ。

 そして,近藤最高裁判事の後任として,名古屋刑務所事件の主任裁判官となった人物こそ,

寺田逸郎・最高裁判事(現・最高裁長官)であった。

 私は,寺田最高裁判事の就任後まもなくの時期,地元の旧国立大学名誉教授クラスの重鎮らに参集していただいたある会合で,寺田最高裁判事が,その就任当初,最高裁判所のホームページに掲載された下掲「裁判官としての心構え等」を印刷して披露し,関係各位に読んでいただいたことがある。勿論,「思うこと」があったからだ。

 この記事を読まれて,某名誉教授が,即座に,口火を切って宣われた。

寺田最高裁判事について,「これではダメだ,
 『裁判官としての心構え』がなっていない!!」と。

 その理由は,裁判官たる者は,「求められている正義への期待」には,「絶対に背いてはならない」のであって,「かけ離れたもの」にならなければよいというは何事だ!!
司法的尊大というべきではないのか,というものである。
 私は,正直なところ,「我が意を得たり」という思いであった。

 そして,寺田最高裁判事の上掲「裁判官としての心構え」は,第18代・最高裁長官に昇格された今も,全く変わっていない。

http://www.courts.go.jp/saikosai/about/saibankan/terada/index.html

 寺田逸郎長官は,いわずと知れた寺田治郎・最高裁判事(第10代・最高裁長官)のご子息であり,「ミスター法務省」との異名をつけられこともあるほど,法務行政に深く携わってこられた超エリートである。

 しかしながら,寺田逸郎・最高裁長官の上記「裁判官としての心構え」は,「裁判官としての」本来あるべき「心構え」としていかがなものであろうか。私の個人的な「正義」観念に照らしてみても,寺田長官の上記「心構え」では,前掲・某名誉教授からの「司法的尊大」であるといった批判を甘受せざるを得ないのではないかと考える。その理由は,次のとおりである。

 国民の皆さん!! 
 殊に刑事裁判で,原判決が有罪判決の場合,最高裁判事が,原判決の有罪認定が論理則・経験則等に照らして不合理といえるか否かという観点から,その審理にあたるとき,「原判決の事実認定に合理的な疑いが残る」と判断すれば,それが「判決に影響を及ぼすべき重大な」ものであって,「原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとき」は,原判決を破棄すべき職責があります(刑事訴訟法411条3号)。「百人の有罪者を逸するとも,一人の無実者を罰することなかれ」という法格言に示されておりますとおり,「無実者」に有罪判決をくだし,その人生航路を大きく狂わせることは,「犯罪事実よりも犯罪的な」いわば国家的犯罪であり,「著しく正義に反する」ことは自明の理であります。このような重大な職責・判断を担う「裁判官」,殊に最高裁判事の「法的思考の特徴と価値」は,「まさに生きた具体的事件について,それに対する責任のある処置という場面において,真に自分の良心的結論に到達するまでとことん思案するという苦しい模索の過程にこそある」というのが正しい在り方であります(中村治朗・元最高裁判事「裁判の世界に生きて」判例時報社388頁)。このような「思案」ないし「苦しい模索」のごとく,献身的・殉教者的な熱意が求められる刑事裁判の審理において,正義への期待から『かけ離れた』(=非常にへだたりのある)ものでさえなければ,(正義への期待から)『離れた』(=隔たりのある)ものでもよい」などという寺田長官の如き『アバウトな』心構えでは,「国民の目線から」みて,「司法的尊大」であるという非難を免れないというべきではないでしょうか。私は,「市井の一弁護士」として,最高裁ホームページで公表されている寺田長官の上記「裁判官としての心構え」は,その文理・文意を素直に受け取る限り,日本司法の最高位にある最高裁長官のそれとして,少なくとも表現において相応しくなく,不適切であると考えます。

 そして,「案の定」というか,前掲・某名誉教授が見事に予見されたとおり,いわゆる名古屋刑務所事件(放水事案,革手錠事案2件の計3件)において,いずれの件も,「複数の」「異なる分野の」,「権威ある」科学者達が,口を揃えて,原判決(名古屋高裁)が認定した犯罪事実(具体的には,「『水道水の水』をかけて直腸が破裂した」だの,「ベルトで胴囲を締めたところ,腸間膜が離れた2箇所で裂開した」だの,といった現象)は,科学的に絶対に起こりえない事象であって,荒唐無稽なナンセンスものであると断定し,かつ,そのことが証拠上も,科学鑑定等で優に立証されていたにもかかわらず,寺田逸郎裁判長(現・最高裁長官)は,その事実認定に論理則・経験則等に照らした合理性について一切言及することもなく,何らの疑いも差し挟むことなく(=判示することもなく),「三行半」の上告棄却判決という行政官僚的な判断をくだしたのであった。

 名古屋刑務所事件は,検察庁が検事総長以下「組織ぐるみ」で,粛々と職務に精励してきた名古屋刑務所・刑務官らをして,懲役受刑者の虐待者(犯罪者)に仕立てあげてしまったものであり,私は,名古屋刑務所事件の全ての事案の主任弁護人を務めた弁護士として,被告人ら刑務官の無実を確信している(現在も,再審請求中である。)。

 したがって,寺田最高裁長官の第三小法廷における前記上告棄却判決は,いずれもが,正に「求められる正義」から「かけ離れたもの」であり,「求められる正義」に背馳するものであると考えざるをえない。この意味で,本ブログは,私の寺田最高裁長官に対する,ささやかな抗議でもある。

 

*注記(平成29年8月29日加筆)

 昨晩,敬愛する阿部泰隆先生(神戸大学名誉教授・行政法)から,

「やっと活字になりました」というメールを受信した。私は,以前,個人的に,阿部先生に対し,名古屋城天守閣木造再建に向け,名古屋市長が専決処分の行うことの当否について相談し,それに対する阿部先生の意見書をいただいたことがあったが,阿部先生がこの件を「政策法学演習講座」の題材として採用され,このたび,公表された阿部論文( 「補正予算が繰り返し継続審議のままの場合の市長の専決処分」自治事務セミナー2017年9月号[第一法規 ] )を添付ファイルで送信してくださった。

 そこで,私は,御礼の返信メールをした際,阿部先生に,本ブログを読んで欲しいと打診したところ,

まもなくして,阿部先生から,

言葉尻を捕まえている感じ 

 実質的に不正義な判断を問題とした方が良いのでは?」

とのご講評を得た(私は「やはり,そうか」とも思った)。しかしながら,このように思われる方には,是非とも,本ブログの冒頭にある

「名古屋刑務所事件」の紫の文字をクリックして,動画をみていただきたい。