北口雅章法律事務所

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津田監督の「誤訳」を指摘しても・・・

津田大介氏(芸術監督)は,国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」のテーマを「情の時代」とし,
あいちトリエンナーレ実行委員会運営会議の席上,
そのコンセプトを説明した。そして,その際,冒頭で,同氏は,
「政治は可能性の芸術である」という言葉をドイツの宰相・ ビスマルクの言葉として紹介している。それとともに,津田監督は,その言葉を,故・丸山眞男教授(東京大学法学部・政治学)も,積極的に引用して論じている旨を指摘した上で,政治の本質がこの一言で表現される旨の意見を述べている。

 

が,しかし,

ビスマルクが,「芸術」の意味で「Kunst」という言葉を用いたとは思われない。津田監督の上記引用(「政治は可能性の芸術である」)は, 「政治は『可能性の技術』(Kunst des Möglichen)である」誤訳であるか曲解であると思われる。ドイツの政治家・政治学者が「Kunst」の言葉を用いる場合は,「技術」とか「技法」の意であって,ここに「芸術(Art)」の意味は含まれてないと思われるからだ(バッハの名曲「 Die Kunst der Fuge」も,一般的に「フーガの技法」と訳されている。)。現に,丸山教授は,ビスマルクが,政治をば「可能性の技術」と述べた趣旨について,政治の場では,その対象が,絶えず動的に変化する可変的なものであることを前提として,具体的な政策形成が行われるという旨のものと捉えてみえる(丸山眞男著「科学としての政治学」1947,同著「政治的判断」1958等参照)。

 私は,このような津田監督独自の,理解困難にして誤った政治学的観念論が闇雲に持ち込まれてしまったことにこそ,国際芸術祭の企画展である「表現の不自由展・その後」の場が,先鋭的な政治的プロパガンダの場に転化されてしまう素地があったのではないか,と考えるものである。が,もとより名古屋市の検証委員会(座長:山本庸幸・元最高裁判事)においては,これに類する「名古屋市事務局(外野席)」の評価・認識は,全面的に排除されている。この意味でも,わが「あいちトリエンナーレ名古屋市あり方・検証委員会」の構成・議論は,(愛知県の検証委員会のそれとは異なり)極めて公正・中立なものである,と自信をもっていえる。

名古屋市のホームページに検証委員会での議論の内容・状況が動画で公開されているので,「表現の不自由展・その後」の問題にご関心のある方は,是非ともご覧いただきたい。