北口雅章法律事務所

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岡口判事・懲戒請求への疑問―「洗脳された」とのグチは,「侮辱」か?

このほど,仙台高裁長官(秋吉淳一郎判事)が,最高裁に対し,
岡口基一判事の懲戒を求めて,分限裁判の申立てをした。
岡口判事が,自身のツイッターで,性的被害を含む殺人事件の刑事判決を紹介したことに絡んで,被害者の遺族から裁判官訴追委員会に向け訴追(罷免)請求されたことをうけて,
「遺族は,自分(岡口判事)を非難するよう東京高裁に洗脳されている」
という趣旨の投稿をフェイスブック(FB)上で,発言したことが,
遺族を「侮辱」し,裁判官に対する国民の信頼を損ね,
裁判官として「品位を辱める行状」に当たる,というのが懲戒請求の理由らしい。

 

「遺族が,東京高裁に洗脳されている」という表現は,
はたして,遺族に対する「侮辱」であろうか?

岩波の国語辞典によると,「洗脳」の語義について,次のとおり書かれている。

せんのう 【洗脳】 俗に思想改造のこと。
▽第二次大戦後の一時期,中国のそれを,揶揄的に表現したbrainnwashingの訳語からか。

とある。

すなわち,「洗脳」とは,「俗に」とあるように,「俗語」であって,明確な定義はない。
(この点,近時問題となった,「反社」=「反社会的勢力」と似ている。)

しかも,「揶揄的な表現」という辞書の説明にも示されているとおり,「脳」は文字通り「洗う」ことはできないから,「比喩」であって,語源的にも,言葉の「表面の意味」の裏側に,ブラックジョークという「裏の意味」を含んだ言葉である。
具体的に敷衍すると,

「洗脳」という言葉には,本来,ユーモア(揶揄)・皮肉の意が込められており,
表現の「送り手」としては,ニュアンスの含みをもった抽象的な表現を使うことで,その含意を読者の判断評価に委ねる反面,「受け手」としても,その言葉の裏にある「毒」(含み),いわば「調味料」(ニュアンス)を独自の観点から(中国共産党の思想矯正教育とのアナロジーをもとに)理解・解釈し,酌み取るべき性格の言葉である。もとより,その「毒」の効きめ,その程度に関する理解・評価(被洗脳者が,洗脳者から,どの程度の影響を受けたか)は,「受け手」の自由な判断に委ねられるのであって,「洗脳」は,このような性格の言葉である。

私が,「中国の思想改造」という言葉から連想する歴史的事実は,映画「ラストエンペラー」の世界である。昔みた映画なので,イメージ的なことしか覚えていないが,清朝最後の皇帝「溥儀」は,かつて旧満州国の皇帝として君臨していたところ,日本の敗戦とともに,旧ソ連軍の捕虜となってしまい,その後,毛沢東率いる中国共産党に引き渡され,そのもとで,他の「囚人ら」とともに強制的に組織的・集団的・硬直的な「思想改造」(思想的な矯正教育)を受けた。このような「思想・良心の自由」が剥脱された状況下での組織的・強制的な矯正教育こそが『洗脳』=『思想改造』の本来の意義である。しかしながら,そのような本来の「思想改造」は,現代社会では,およそ非人道的な「人権侵害」ないし「蛮行」であって,少なくとも現代の日本社会では,空想の世界に属することで,若い世代では,かつての史実すらも知らない方が多いに違いない。したがって,上記語源的理解が正しいとすれば,「洗脳」という言葉の用法には,「かつての中国共産党の思想改造・思想教育」を想起させ,「揶揄(やゆ)する」といった「言葉遊び」の要素を多分に含むものであって,その言葉を用いること自体が,いわば「言葉の分化」,「言葉遊び」なのである。

もちろん,われわれが『洗脳』という言葉を,冗談ではなく,「(ブラック)ユーモア」をニュアンスに含めずに使う場合も全くないではない。例えば,典型的には,新興宗教(例えばオウム真理教)が,無垢の若者に対し,その善意・無知に付け込んで,特定の信仰を植え付けたような場合には,ある種の悪意を含めて「洗脳」したという。あるいは,新興宗教の教祖が,いわゆる「霊感商法」を行った場合なども,セールスの前提として顧客を「洗脳」したと批判する場合もあろう。

しかしながら,実際には,「洗脳」という言葉は,もっぱら,「揶揄(からかい)」(ユーモア)の含意をもって用いるものが通常であり,悪意は含まないで,一種の「比喩」として用いるケースが圧倒的多数ではないか。

私は,昔,司法修習の実務修習で,医療過誤訴訟を「選択修習」で選んでくれた司法修習生のために,「講義案」を作ったことがあるが,そこでも確か「洗脳」という言葉を使った覚えがある。そこで,私が昔作った「講義案」を読み返してみると,「立証活動の本質は,『裁判官の洗脳』である」と書いてあった。すなわち,患者側の医学的主張の正当性を裏づけるためには,裁判官を『洗脳』するくらいに医学文献を準備する必要がある旨を説いていた文章である。ここでいう『洗脳』とは,裁判官の心証を自陣の主張に沿う方向になびかせるという意味であって,強力に働きかける(立証活動を行う。)という趣旨である。『裁判官の洗脳』という「講義案の文言・文面」に,裁判官の『思想改造』をするなどという意味など全くないし(そんなことができるわけがない。),まして裁判官を『侮辱』する趣旨・意味は100%ない,と断定できる。

以上から明らかなとおり,

岡口判事が,「遺族が,東京高裁に洗脳されている」とフェイスブックで書いたとすれば,客観的には,「東京高裁」の遺族に対する働きかけを『揶揄』したのもの(東京高裁が,遺族に対し,一方的な情報を提供して,一定の方向に遺族の考えを「誤導」した,ということが言いたかったのであろう。)であって,
遺族に対する『侮辱』の意図・目的・意味など100%なかった,と想像される。
そもそも,フェイスブックで発信した上記文面は,遺族に宛てたものではないであろう。たとえ,「読者の一人に過ぎない」遺族が「洗脳」の趣旨・ニュアンスについて,岡口判事の本意に反した意味に受け取り,一方的に誤解したとしても,岡口判事としては,それが解った時点で,関係者に不快の思いをさせてしまったことを反省し,即座にその投稿をフェイスブックから抹消し,遺族に謝罪した,とのことである。

これをもって,なおも『侮辱』だというのであれば,仙台高裁長官の国語能力にかかわる問題であって,高裁長官という「模範的・指導者的立場」にある裁判官が,このような前後の文脈・脈絡を無視して,表現者(岡口判事)の表現について,その言葉の語義・趣旨・意図を無視して曲解し,片言隻語に因縁をつけるのはいかがなものであろうか。それこそ裁判官に対する国民の信頼を損ねるものではないだろうか。

私は,今回の秋吉長官のとった行動は,最高裁事務総局に阿諛追従(あゆついしょう)するものではないか,との疑念を抱く者であり,一法曹として,極めて遺憾に思う。