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円空と俊乗 『近世畸人伝』(伴蒿蹊)より

「円空」に関する個人研究のため,『近世畸人伝』に出てくる円空の伝説部分を現代語訳してみた。

 なお,『近世畸人伝』は,寛政2年(1790年),伴蒿蹊(京都の国学者)が,円空の没後約100年後に,千光寺に伝わる伝承をもとに執筆したとされているが,何となく円空の人物像が偲ばれる。

 

僧・円空     附,俊乗

 僧・円空は,美濃国(岐阜県南部)の「竹が鼻」の出身である。幼くして某寺にて出家したが,二三歳で寺を出て,富士山や白山(石川県)に籠(こ)もって修行した。ある夜,白山権現のお告げがあり,「美濃の国にて池尻弥勒寺(岐阜県関市)を再建するように。」と仰せつかったため,まもなくその寺の再建を成就したことから,その地にとどまることなく,飛騨国(岐阜県北部)の袈裟山千光寺へと遊行した。このときの千光寺の住職「俊乗」は,「無我の人」(とらわれを離れた心の自由な方)で,円空とは気が合い,交誼があった。円空の所持品は鉈(なた)一丁のみである。常にこの鉈を持って仏像を刻むことを業としていた。袈裟山においても,きり立ったままの枯木に向かって彫った仁王がある。今,この仁王像を見るに,仏師が造顕した像と何ら遜色がない。
 また,円空には予知能力があり,来訪者などは,事前に予期していた。また,人相や家相を見ては,あるは「久しく安泰だろう。」とか,あるは「まもなく衰えるだろう。」など予言し,一度も誤ったことがなかった。ある時,円空は,この飛騨高山の領主・金森候の居城を指して,「ここには城の運気がない。」と言い放ったところ,その後,一,二年の間に,幕府からの命令で金森候は,出羽へ国替えとされ,その居城は廃墟となった。また,「大丹生(おほにふ)」という名のについては,その池に近づくと祟りがあり,「一家の主人が池に引き込まれる。」といった伝説があったことから,誰もその池に近づかなかった。ところが,あるとき,円空がこの大丹生池を見て,「この池の水には,怪異なものがとり憑いている。このままでは,国中が大災難にみまわれるであろう。」と予言した。このため,円空の祈祷能力を知る人々は驚き,「何としてでも,この災難から村を救ってください。」と懇願した。そこで,円空は,鉈を使って,千体の仏像を数日で彫り上げ,その池に沈めた。それ以後,この周辺では,何の災危も起きず,池に近づいた者が行方不明になるという事件も起こらなくなった。円空は,この飛騨の国より東に向かって遊行し,北海道(蝦夷)に渡り,仏教の知られていない地域で布教活動を行い,人々の苦しみを救済したため,布教先の人々は,円空のことを「今釈迦」と呼んで敬ったという。その後,円空は美濃の池尻に帰ってきて,死去した。美濃や飛騨では,円空が「窟上人」と呼ばれていたのは,洞窟に住んでいたからかもしれない。

○かの袈裟山の「俊乗」は,人がウソをついても,本当のことだと信じ込む性分であった。「蓮華坂(れんげざか)」という場所には,「蓮華躑躅(れんげつつじ)」という花が植えてあった。その花の盛りの時季,ある人が俊乗に向かって,冗談で,「あの花に背を向けて立ち,その花に炙(あぶ)られるようにしていると,暖かいですよ。試してみてはいかがでしょうか。」と勧めた。すると俊乗は,ある日,教られるままに実行したところ,春の日射しを背に受け,いかにも暖かく感じたことを,日射しが原因だとは思わないで,本当に花の暖かみが原因だと思い込んで喜んだ,という。また,ある人が,俊乗をだまして,「坂を登るには牛馬のように四つん這(ば)いになって登れば苦しくないですよ。」と言ったのを真に受けて,袈裟山の麓(ふもと)より八町(約八七二メートル)ほどの距離がある,険しい坂を四つん這いで這いあがっていったところ,その後,俊乗は,「これは,聞いた話とは随分と趣が違うなあ。かなり苦しかったなあ。」と言ったそうだ。俊乗は,このような愚直な人間であったため,円空とはよく馬が合い,親交があった。

 

岩波文庫『近世畸人伝』(1940年発行)から

 

※円空が千光寺に残した仁王

(東京国立博物館140年記念「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡」図録より)