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卑弥呼(邪馬台国)の宮殿は,宮崎市にあった!

周知のとおり,邪馬台国の位置については,畿内説と九州説の対立があることは,どの高校の教科書にも出てくることであるが,私は,直観的に「宮崎ではないのか!? 」と考え,学生時代から,内心,そう思い続けてきた。
このほど,私の直観を実証してくれていた本,土田章夫著「邪馬台国は宮崎市にあった!」にめぐりあった。この本の一部を紹介することで,「私の直観」が,我ながら侮れないことを述べておきたい。

 

私が,学生時代から,「直観」的に「宮崎ではないのか!?」 と想ってきた理由は,次のとおりである。
「邪馬台」と「大和」は発音が似ており,「邪馬台」は「大和」の前身と考えるのが合理的である。②「大和」朝廷は,古事記・日本書紀に記録された神話(天孫降臨)をもつ。そして,この神話によれば,天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令で,高天原から邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨した地は「日向(今の宮崎)」とされている。③卑弥呼も天照大神も女帝という点で共通している。④宮崎には,神話の世界を連想させる「高千穂峡」がある。⑤「崎」という地名の由来は知らないが,「宮」の一文字は,神権政治を行っていた「卑弥呼」の宮殿を連想させる。

(高千穂峡)

土田説の詳細は,上掲・著書を買って,読んでもらいたいが,触り紹介させていただくと,次のとおりである。
土田説=「邪馬台国=宮崎市」説の根拠は,数々の傍証が挙げられているが,やはり中核的な根拠は,①魏志倭人伝に登場する邪馬台国の高官10名の名前が,一人を除き,全員,宮崎市内の地名として残されていること(例えば,「イキマ(伊支馬)」≒「イキメ(宮崎市・生目)」,「ミマワキ(弥馬獲支)」≒「ミヤワキ(宮脇)」等。ただし,「トシゴリ(都市牛利)」≒「トノコオリ(都於郡)」だけは,宮崎市に隣接する西都市(さいとし)にある。),②宮崎市内に存在する大型古墳のうち,「生目1号古墳」が,卑弥呼の墓の条件(築造年代が3世紀後半,大きさ[魏志倭人伝によれば,「径100歩」等])とぴったり整合する,③帯方群から邪馬台国に至る行程(特に不弥国から投馬国[今の大分県南部~宮崎県北部]への(九州東岸)水行20日,投馬国から邪馬台国への水行10日・陸行1月)が無理なく合理的に説明できる,等であろう。

前記①ないし③の考察は,いままで,専門の考古学者らは一体何を考えてきたのか? と想わせるほど素晴らしい。魏志倭人伝を読み返すと,なるほど「…卑弥呼以って死す。大いに塚を造る。径百余歩殉葬(殉死)する者,奴婢(ぬひ)百余人」と記載されている。
 卑弥呼は,239年(景初3年),魏の皇帝に使いを派遣して「親魏倭王」の称号を得ているので,死亡時期は,三世紀後半と考えられるが,この頃の古墳は,「埴輪」が造られず,古代エジプトのピラミッドと同様,大勢の奴隷(「奴婢(ぬひ)」)が,一緒に埋葬されていた。昔,見た映画では,ピラミッドが造築されたとき,古代エジプトでは,皇帝の葬送と同時に,多数の奴隷が「生き埋め」にされていたが,卑弥呼の場合,「奴婢(ぬひ)百余人」が殉葬,つまり,殺害されて一緒に埋葬されていた。土田氏の本書によると,宮崎県南部から鹿児島県大隅半島にかけて特異的に分布している「地下式横穴墓」こそ,邪馬台国の王族の死亡時に殉死させられた奴隷達の墓だという。そして,土田氏が,卑弥呼の墓と特定した大型古墳「生目1号古墳」の内部には,「地下式横穴墓」が存在するのだそうだ。

「生目1号古墳」は,前方後円墳であるが,この古墳の軸線が,「高千穂峰の方角を指していることに気づいた」,そして,「高千穂峰の山頂」と「生目1号古墳」の軸線を結んだ延長線上に,「天照大神が生まれたとされる聖地・阿波岐原の『みそぎ池』南端を通ることを確認」した,というあたり驚愕すべき発見であり,「論争に終止符を打つ」といっても過言でないレベルの説得力がある。

ただ,惜しむらく,本書は,「筆者が」,「筆者が」,「筆者は」という「余計な」主語が多用され,かつ,推測でしかものが言えないはずの事項が,一方的に断定されている箇所が多く(特に後半部分),やや鼻につく。自己顕示欲を満たしたい気持ちはよくわかるが,読む人が読めば,「賞賛に値する,考古学的な大発見」であることは明らかであると思われるので,もう少し表現を和らげ,控えめの表現にしておいていただいた方がよろしいのではないか,と思った。

 

西都原古墳群出土の埴輪・船

 


西都原4号地下式横穴墓から出土した
「3領の鉄製短甲(鎧よろい)