北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

天智・天武と額田王は,三角関係だったのか?

万葉集で,最も有名な贈答歌に

額田王(ぬかたのおおきみ)が作った歌 がある。

20番 あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや君が袖振る

[大意](薬草を採る行事で)野原(紫野と標野)を行くと,君(大海人皇子)が,私に向かって,(恋人同士でなされるものとみられる)袖を振る動作を見せた。駄目よ,野原の番人(第三者,夫)に見られてしまうから。

 

これに対して,大海人皇子(当時「皇太子」。後の天武天皇)が答えた歌が,

21番 紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば
人妻故にわれ恋ひめやも

[大意]紫草のように美しいあなたを憎いと思ったら,人妻であるのに,私はかくも恋しく思うだろうか。

 

額田王は,もとは大海人皇子(後の天武天皇)の妻であり,2人の間には,皇女(十市皇子)まで生まれていたが,その後,額田王は,中大兄皇子(後の天智天皇)の後宮(女官から后妃に昇進)になり,大海人皇子からすれば,妻を兄に横取りされたような形になった。そこで,天智・天武との間で,額田王をめぐって三角関係が生じたという理解があり,上掲・問答歌は,大海人皇子と額田王との,忍ぶ恋(ややあらさまではあるが)を詠んだという理解がある。

日本古典文学大系(岩波書店)も,新日本古典文学大系(岩波書店)も,この贈答歌を「恋歌」との前提で現代語訳をつけている(中西進先生も,恋歌として理解されている。)。だが,近時の有力説は,上記歌が「雑歌」の部に収められていて,「相聞」部ではないことから,恋歌ではなく,宴席の座興歌ではないかという理解もある。

しかしながら,この贈答歌に関する上野正彦先生(弁護士)の分析(「万葉集難訓歌」学芸みらい社)は鋭く,上掲贈答歌は,恋歌でも,宴席の座興歌でもなく,明らかに壬申の乱(大海人皇子が,大友皇子を殺害した内乱)の先触れというべき雑歌というのが上野説だ。

日本書記によると,天智天皇が即位した668年5月5日,天皇が「蒲生野(かもうの)に出向き,遊猟(薬猟)した際,大皇弟(大海人皇子)・諸王・内臣(中臣鎌足)を随従させた。」との記事があるので,大海人皇子が,野原で,額田王に向かって,「袖振り行為」を行った事実はあるようだ。

だが,20番21番の歌が歌われた668年当時,上野先生の分析によると,天智天皇は,43歳,大海人皇子は38歳,額田王は36歳であり,大海人皇子(当時19歳)と額田王(当時17歳)の間に生まれていた十市皇女は,天智天皇の嫡男・大友皇子と結婚し,2人の間には,665年,葛野王が誕生していた。つまり,その当時,額田王は,将来,天皇になるかもしれない「数え4歳の孫(葛野王)」を可愛がっていたのであって,「約20年も昔の男」に恋歌を送るような年齢か?という疑問がある。また,大海人皇子は,657年,天智天皇の第二皇女である鸕野讚良(うののさらら)皇女(当時13歳。後の持統天皇)を妻に迎え,2人の間には,草壁皇子も生まれていたから,嫉妬深い鸕野讚良皇女を前に「浮気」などできるわけがない

実は,上野先生によると,そもそも20番の歌は,題詞の記載形式(「天皇,蒲生野に遊猟(みかり)したまふ時に,額田王が作る歌」)からして,歌の主体は,天智天皇であり,額田王ではなく,あくまでも,額田王は,作歌については「天智天皇の代行者」に過ぎない,とのこと。となれば,

20番・21番の各歌の真意は,全く別の意味になる(「裏の意味」があることになる)。

私流に,歌の真意を翻訳すると,次のとおりとなる。

20番:「ちょっと,そこで『袖振り行為』をなされたアナタ,大海人皇子よ!!,アナタの媚態は,私(額田王)の今のダンナ(天智天皇)にバレバレですよ。

21番:「あなた(額田王)は,もう『薹(とう)が立つ』年齢でしょう。『紫草のにほへる妹』などではないし,今は『人妻』なんだからさぁ。私が本気で『袖振り行為』をしているわけがないことはわかってるでしょう。兄貴(今は,アンタのダンナ)は,次の天皇に私を指名してくれていたのに(「大皇弟」≒皇太子),私を裏切って,大友皇子を,次の天皇にしようと考えているんじゃないか,と思ってね。ついつい,頭にきて挑発してやったのさ。

もちろん,20番21番がよまれた668年当時,標記・三角関係はなかったと考えられるが,その昔は,三角関係にあったように思われる。それを示す歌が,中大兄皇子が詠んだとされる「三山の歌」(13番)ではないか。本日は,くたびれたので,これまで。