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円空仏の後頭部の宝印は「ウ・最勝の」の意か?(上)

 

円空は、延宝七年(1679)、円空が白山神から「円空が造顕した神仏像には『世尊(釈迦如来)』が宿る」という趣旨の託宣を受けた旨の背銘が記された仏像(岐阜県郡上市・熊野神社の十一面観音像等)を遺している。そして、これ以降に造顕された円空仏の多くは、その後頭部に、上掲・宝印(以下「本宝印」という。)が墨書されている。

 

本宝印(マーク)の意義については、「ウ(最勝の)」の梵字(その変形)であるというのが円空学会の定説となっている(小島梯次著「円空仏入門」70頁)。

 

だが、はたしてそのように理解してよいものであろうか。

愚弁には、疑問である。以下にその理由を述べる。

 

 

まず、第1に、「ウ」の梵字(漢字表記では「汗」と書く)の字体は、平仮名でいえば「ろ」に近く本宝印のいかなる特徴をもって「汗(ウ)の変形」と理解できるのかが、愚弁には、全く理解できない。梵字の「ウ」の左側は、上端と下箸がつながっていない(開かれている)のに対し、本宝印の左側は上下が結びつけられており、円環的につながっていることから、字形は全く異なる。

円空学会の上記定説を最初に提唱されたのは、初代・円空学会理事長谷口順三氏とのことである(小島梯次著「円空・人」111頁)。しかしながら、小島理事長が援用されている谷口・初代理事長・解説本の「讃 円空佛」を精査したが、「背文ウ(最勝)」というように本宝印=「ウ」=「最勝」であることが「所与の前提」として述べられているにとどまり、そのように解釈される理由については、何も書かれていない。

 

 第2に、「ウ(汗)」の梵字が、どうして「最勝(最高;最もすぐれた)」という意味に理解されるのか、その理由が示されていない。―愚弁は、天台系の梵字は無学なので断定はできないが―、(少なくとも真言系の梵字の理解からすれば)梵字の意義は深遠・無限のものであって、「最勝」などという形容詞に置き換えられるとする理解は、梵字の本質に反すると思われる。弘法大師・空海によれば、「ウ(汗)」という梵字の「字相」(字の表面的解釈)は、「一切諸法」の「損減」の義であり、「一切の(仏)法の無常・苦・空・無我を知る」ことが「損減」の意である、と説かれる。また、「ウ(汗)」という梵字の「字義」(字の実相的解釈)は、いわゆる「汗字門」において、あらゆるものの「損減」が捉えられないこと(「損減不可得」)を表しており、さらに、絶対の悟りの世界という虚空が常に存在し、損なうことも減ることもないこと示し……、等等と延々と「字義(実義)」が説かれている(『吽字義』参照)のであって、円空が、このような「ウ(汗)」の梵字の趣旨で本宝印を墨書したとは思えない。

 

 第3に、もし仮に上記定説のごとく、本宝印=「ウ」=「最勝」だと仮定した場合、本宝印は、常に、神仏像の背面の筆頭(後頭部)にて墨書されるはずではないだろうか。ところが、本宝印は、必ずしも頭頂に位置づけられているわけではない。例えば、小渕観音院に遺る蔵王権現像の場合、左肩甲骨下あたりに本宝印が記載され、その下には、仏の種子を示す梵字の記載はない。また、春照観音堂の十一面観音(滋賀県米原市伊吹町)や、下掲・神像についても、同様の疑問がある。

 

では、本宝印については、上記定説以外に、どのような解釈が可能であろうか。

卑見については、別途、ブログで述べることにしたい。

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