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円空仏(ENKU)入門3「6本指の如意輪観音とボッティチェリ(Botticelli)」

[問]岐阜県下呂市金山町にある円空作「如意輪観音像」右手の指は,

何故,6本あるのか?

 

 いくら「奇僧」円空でも,他の仏像の手は,基本,5本指で造顕されている。
もちろん,仏像の中には,ヒンドゥー教の影響で,多面多臂の仏像(千手観音のように,顔や手足を複数もつ)もあるが,あくまでも,指だけは,基本5本である。

 

 では,何故,円空は,下呂の如意輪観音については,指を6本に造顕したのか。まさか計算間違いしたのではなく,そこには「計算」された何らかの意図(「刻因」)があったはずであろう。

 最近,「円空」関係の文献を渉猟していたところ,円空学会理事長小島梯次先生が,今から10年以上も昔である,平成18年7月1日発行の「円空学会だより」第140号(『円空研究―30』所収)に,「六本指の如意輪観音」と題する論考をのせておられ,上記「謎」に関する考察が述べられているのを知った。

 小島先生によれば,小笠原の母島に六本指の地蔵があり,インドでは,六本指の人物は崇拝されていること,フィリピンでは,六本指の子の誕生は吉祥の印ともされていること,はたまた,安藤広重の「東海道五十三次」で描かれた人物の多くが「六本指の足」をしていることはよく指摘される,とのことである。

 が,小島先生が,この論考で指摘したかったことは,次のとおりである。
 上掲・如意輪観音の「六本指の理由(わけ)」は,従来はただ単に「間違えたのだろう」という説が有力であったが,実は,円空ゆかりの雲太寺(北名古屋市鍛冶ヶ一色)の本尊である阿弥陀如来は,指が六本彫られている,同寺には,円空仏(弁財天)が遺されている。一方,青木自由治氏(民俗学研究家)によれば,「想像力を喚び起こす誘因となるのは,明らかに現実に存する有形物であり,いかに複雑怪奇な空想産物といえども,すべてその派生・誘導の所産にすぎない」というのであるから,円空の場合も,雲太寺本尊(阿弥陀如来の六本指)に影響されたのかもしれない。そして,この問題を問題提起としておきたい,と述べられている。

 上記小島説は,極めて説得力のある見解であるが,―北名古屋市と下呂とではやや距離が離隔していることに難があるように思われ,それを措くとしても―,六本指の阿弥陀如来像の存在自体は,「六本指」の誘因(モデル・ヒント)についての説明とはなりえても,なお,円空が何故に下呂の地で如意輪観音を彫刻・造顕するにあたって,その頬に当てるべき右手の指を何故「六本指」にしたのか?,その理由・動機(絵画であれば,折口信夫がいうところの「画因」)が何処にあったのか,という造顕意図に関しては,説明したことにならない(そのモデルとされたかもしれない阿弥陀如来においても,何故,六本指とされたのか,その製作者たる仏師の意図は,仏像を鑑賞しただけでは不明だからである。)。

 確たる根拠はないが,私は,この如意輪観音の「六本指」に関しては,二つの理由(いわば「刻因」)が考えられるように思う。若干話が逸れるが,ここで思い出されるのが,
ボッティチェリ(Botticelli)の名画『ヴィーナスの誕生』だ。

 

私は,昔から,このヴィーナスには違和感を感じてきた。
エルンスト・H・ゴンブリッチ先生は,
ボッティチェリのヴィーナスはあまりに美しいので,不自然な首の長さ,極端に下がった肩,左腕が胴体につながる部分の奇妙な感じに,人は気がつかない。と述べられている(『美術の物語』河出書房新社)。しかしながら,私が,昔から感じてきたこのヴィーナスに対する違和感は,まさに「不自然な首の長さ」であり,「極端に下がった肩」であり,「左腕が胴体につながる部分」「奇形」にあったのだ。

ところが,円空の「如意輪観音の六本指」には,上記ヴィーナスの違和感や不自然さを全く感じさせない。何故であろうか。

私は,この「如意輪観音の六本指」円空独特のユーモア(悪戯いたずら心)と,慈愛の情を感じる。前者は,一目瞭然だろう。六本指の仏像を観れば,誰しも,「エーッ?,なんでぇ??」と考え込むはずであり,円空が,そのように困惑した人々の驚く姿を想像しながら,鑿(のみ)を振るったことは想像に難くない。しかしながら,人々を驚かせてみよう,といった単なるのユーモア(悪戯心)だけで終わったのであれば,高度の修行を積んだ修験僧の名が泣くであろう。実は,下呂でも,当時,小島先生が紹介されていた青木自由治氏(民俗学研究家)が指摘されているように「想像力を喚び起こす誘因」となる「有形物」としての「六本指」が,現実に存したのではないだろうか。

 ここで,想起されるのが,白土三平の名作『カムイ外伝』の中の,

「五つ」という忍者の話である。

(蛙の奇形)

(手足が5本ある蛙が,蛇の餌食に・・・?)

そして,この忍者の正体は,・・・

 

 もし,当時,下呂に「六本指」という「奇形」をもって生まれた人物が実在したとすれば,その人物は,蔑まれ,気持ち悪がられ,差別された可能性がある。例えば,「前世の悪業の報いを受けたのだ。」と決めつけられて。
 これに対し,円空は,「いや,『六本指の奇形』があろうと,人間であることに変わりがない。必ず成仏できる。見よ!,この如意輪観音を。」といった『刻因』があったのではないか。などと根拠もなく考えたのであった。