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「腹腔鏡事件をめぐる医療裁判」で考えたこと その10(因果関係論) | 弁護士ブログ | 名古屋で医療過誤のご相談は 北口雅章法律事務所
(本編;つづき)
本件手術の場合,B医師が、術後管理義務を果たしていれば、本件患者を救命できたか。これが法律的には、過失と死亡結果(損害)との間の因果関係の問題であり、控訴審(名古屋高裁)で、この点の判断が問題となった。
当方(G)は、上記因果関係論について、もし仮に,B医師が第4病日ないし遅くとも第5病日までに適切かつ有効なドレナージの措置(位置の修正,強力な吸引力を有する機種への変更)を講じたとすれば、遅くとも第5病日(10月23日)以降はドレーン効果(治療効果)が改善され、もって、縫合不全に起因する腹腔内感染症の拡大防止が図られ、第14病日(11月1日)の動脈出血を回避できたものと考えられることから、本件患者の死亡結果を回避できた高度の蓋然性がある、と主張した。
これに対し、名古屋高裁判決(令和5年10月26日)は、上記の因果関係を否定し(B医師が第5病日までに適切な術後管理を実施したとしても、本件患者の死亡結果を回避できた高度の蓋然性は認められないと判示)、ただし、第14病日の動脈出血を回避できた「相当程度の可能性」があったとして、500万円の慰謝料を認めた。
名古屋高裁が上記因果関係を否定した唯一の根拠は、Y病院側が援用した医学文献(常深聡一郎ほか胃癌術後膵液瘻に起因する腹腔内出血症例の検討」[乙B27])で、大阪医科大学・消化器外科が1997.1-2007.9の間に取り扱った胃癌切除症例1176例のうち、a.78例(6.6%)に膵液漏を認め、b.うち15例(1.5%)に腹腔内出血を認め、c.うち7例が死亡した、と記載されていたことにあった。
しかしながら、本件医療事故発生時から約10年も前の古い文献であることを措くとしても。上記高裁判断は、「日本語として意味不明」である。
何故ならば、上記データを救命率の根拠とするにしても、もし仮に上記a.78例(母数)のうち、上記c.の7例を除く、71例(=78例−7例)が救命できたとすると、約91%の生存率(71÷78≒0.91%)であるから、死亡を回避できた高度の蓋然性が認められるはずである。
逆に、もし仮に上記bの15例(腹腔内出血発症例)を母数として、救命率を計算した場合、死亡率が約47%(7例÷15例=0.466」)となるから死亡結果を回避できた「高度の蓋然性」は認められないことになる。しかしながら、このような仮定(前提)のもと、すなわち、母数から「腹腔内出血」を発症しなかった症例を除くということは、換言すれば、一旦「膵液漏(縫合不全)」を発症すれば、全例、「腹腔内出血」を必ず発症するとの前提を採用することになるが、これでは、上記高裁判例が、「膵液漏(縫合不全)」を発症させてても、適切な術後管理(最適のドレーン管理)を実施すれば、「腹腔内出血」を回避できることについて「相当程度の可能性」を認めたことと「論理的に矛盾」することになる。
以上のとおり、当方(G)は、令和元年8月の提訴から令和5年10月末までの4年以上にわたる裁判を経て、この間、権威ある名誉教授と、元裁判官の支援を受けつつ、最高・最上の弁護活動をしたつもり、最後に「なんじゃいな?!」というような高裁判決を受けた。名古屋高裁の判決を受けたときは、唖然とし、最高裁からの不受理決定の通知書が届いたときは、茫然とした。そして、このたび、段ボール1箱分の訴訟記録(準備メモ等の記録を含む。)を紐解いて、本回想録を綴るにつけ、「裁判の劣化」をしみじみと嘆かざるを得ない。
なお、昨今の最高裁は、上告受理制度の趣旨(最上級審・法律審の負担軽減・省力化)を徹底するようになり、個別的救済には、非常に冷たくなった。医療過誤訴訟の分野では、管見によれば、最高裁が、社会的意味のある「個別的」事案を扱ったのは、最高裁平成22年1月26日第三小法廷判決(近藤崇晴裁判長;せん妄・興奮状態の患者について、両上肢を抑制具で拘束した措置を適法とした。)を最後に、それ以後は途絶えた。これ以降、医療側の無答責を説示した高裁判決について、これを経験則違反等を理由に覆した最高裁判例は消え失せ、医療関連判例としては、広島高裁の「期待権侵害論」を取り消した最高裁平成23年2月25日第2小法廷判決(千葉勝美裁判長)の他は、イレッサ薬害訴訟(最高裁平成25年4月12日第三小法廷判決・寺田逸郎裁判長)のような集団的訴訟が目についた程度のものである。
かつて、弁護士出身の最高裁判事であられた亡滝井繁男判事は、その著書の中で次のとおり述べられている(「最高裁判所は変わったか 一裁判官の自己検証」岩波書店41頁)。
「訴訟法が上告理由を制限しているのは、最高裁に最上級審としての負担を軽減し、本来的機能とされている仕事にエネルギーと投じ、その職責を果たすためである。……確かに、上告受理制度のもとでは、受理の申立てであっても、それを取り上げるかどうかは裁判所の裁量に属することであり、そのために調査するまでの職責があるわけではない。しかし、その職に就き、原審判決の非をなじる真摯な不満の訴えを前にすると、それは本来の職責ではない、それらを取り上げるかどうかは裁量に属することだ、と簡単に割り切って対応できないものがある。」
「……。民事事件でも、原審での合議がどのように行われていたのであろうかと首を傾げたくなる事件や上告理由を読むと、もう少し親切にできなかったかと思う事件に遭遇するのである。それらの事件を前にすると、最高裁はそんなことを取り上げるところではないといって目をつむってよいのだろうか、それでは国民の司法への信頼を保てるのであろうか、と考えてしまうのである。」と。
この滝井判事のごとくに思い悩む、良心的な最高裁判事は、もはや絶滅危惧種ではなく、既に絶滅状態なのであろうか。
完