北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

鉈薬師堂の円空仏をめぐって⑵

 2017-11-21日付けのブログで,「鉈薬師堂の円空仏をめぐって⑴」を公表してから,随分と時間が経ってしまった。このため,2017-11当時は,「鉈薬師堂の円空仏をめぐって⑵」を公表する構想があったものと思われるが,月日が経つと何を書こうとしていたのかを,忘れてしまった。

が,あれからも継続して,円空仏の個人的研究を細々と続けており,先のブログを読み返してみて,「鉈薬師堂の円空仏」に関して書き足りないところ,書き残したと思われる最低限のところを,上記ブログの「続編」として書き足しておきたい(「鉈薬師堂の円空仏」については興味が尽きないが,いずれ,「円空の人生航路」と「円空仏の美術的批評」をミックスした通年史的な物語を書いてみたいと思っている(現在,構想中))。

1.円空は,(新たな本尊を含む)薬師三尊像を構想・造顕していた。

 前記ブログ⑴でも言及したとおり,鉈薬師堂の本尊は,鎌倉時代に造顕された旧薬師如来が祀られており,その脇侍として,円空は,日光菩薩・月光菩薩を造顕している。ところが,実は,本来は旧本尊(薬師如来)に替わるべき新規の円空作・薬師如来も同時に造顕されていた。これが善昌寺(名古屋市昭和区石仏町)所蔵の薬師如来である。
このことを最初に指摘されたのは小島梯次先生(円空学会理事長)ではなかったかと思うが,いずれ確認する必要があると思っている。以下,写真は,長谷川公茂編『定本愛知県の円空仏』(郷土出版社),円空学会誌・図録等からの拝借。

善昌寺所蔵の薬師如来

鉈薬師堂の日光菩薩と月光菩薩

 

一見して明らかなとおり,上掲の三つの諸像では,雲形紋様」が共通して彫られているところから,上掲・3躯が,三尊像としてワンセットで造顕されたことは明らかであろう。
前記の写真を合成して,薬師三尊像を再現すると,・・・

(前田邦臣「名古屋市研究会記」平成6年4月1日発行『円空学会だより』より)

なお,円空作の薬師如来像が,鉈薬師堂での新たな本尊として採用されなかった理由は,梅原説によれば,江戸時代,寺院の新築が禁止されていたため,新築に至らない改築の範囲でのみ再建が認められていた関係で,旧堂との同一性を保持するために,本尊の変更が認められなかった可能性がある,とのことである。

 

2.鉈薬師堂の諸像に共通する「雲形紋様」は何を意味するか?

鉈薬師堂の日光菩薩・月光菩薩に限らず,鉈薬師堂の諸像(阿弥陀如来と観音菩薩を除く)には,「雲形紋様」が彫られている。具体的には,いわゆる合掌童子像(上掲左)や,十二神将像(上掲右は「辰」)等に見られる。

この「雲形紋様」は何を模(かたど)ったものであろうか。

三説がありうる。第1説は,「雲」であり(以下「雲説」),第2説は,「荒波」であり(以下「波説」),第3説は,アイヌ人の民族衣装などで見られる「渦巻紋様」(アイウシ文,モレウ文)である(以下「アイヌ説」)。

唐草文様

アイヌの渦巻紋様

雲説は,中国の「唐草文様」をイメージしたもので,鉈薬師堂・再建寺の発願者=依頼者である張振甫(明王朝からの亡命者)への配慮を根拠とするもので,波説は,張振甫の亡命・渡航時の苦難や,日光・月光に照らされる荒波を連想させることを根拠とし,アイヌ説は,実は,円空は,寛文9年(1669年),鉈薬師堂の諸像を造顕しているところ,その約3年前(寛文6年),北海道を巡錫して,多数の聖観音・十一面観音像を造顕しており,その際,アイヌ民族の庶民と接していたことが合理的に推測されることを根拠とする。

円空が敬慕する張振甫に配慮したことは明らかであろう。
鉈薬師堂の十二神将の諸像は,正覚寺(愛知県丹羽郡扶桑町所在の尼寺)に遺された円空作・十二神将の諸像と比較しても,明らかに日本人の顔つきではなく,中国人の顔つきに似せてあるように思われる。

 

上の写真が,鉈薬師堂の十二神将,

下の写真(後藤英夫撮影)は,正覚寺所蔵の十二神将。

 

また,円空は,後年,海や荒波のイメージとは,全く関係のない諸像,例えば,他院で造顕した青面金剛神狛犬にも,「雲形紋様」を用いていることから(下掲・写真),少なくとも「雲」のイメージを排除して,『波』のイメージのみで,「雲形紋様」を説明することは困難であるように思われる。

他方,「雲形以外の」他のイメージ,すなわち,荒波やアイヌの民族的文様のイメージについても,これを排除する理由を見いだしがたいように思われる。
この点,

梅原猛先生は,次のとおり述べておられる。
曰く「私は,この雲形文を見て,アイヌの人たちの衣服や器物に施された雲形の紋様を思い出した。それは,縄文土器の文様にも通じるような水の流れや風の流れに象徴される,宇宙にみなぎる霊の運動を示す文様ではないか。円空は,このような文様を施すことによってその仏像に異常な霊力を与えようとしたのであろう。
 ・・・,この像を何度も見ているうちに,もう一つの想念が私の頭に思い浮かんだ。それは,張振甫が故国を離れてはるばる日本へ渡る船の中で見た日や月をイメージしたものではなかろうか。この船旅における張振甫の不安は大変なものであったと思われる。彼は海や雲の上に浮かぶ日や月を,祈るような気持ちで眺めたことであろう。円空も,東北・北海道の旅では不安な気持ちで海や雲の上に浮かぶ日や月を見たであう。そして円空は,張振甫の日本亡命の旅を,彼の東北・北海道への旅と重ね合わせて,このような大胆なデザインの日光・月光菩薩像を作ったのではないか。」と(『歓喜する円空』新潮社197頁)。

 要するに,梅原説は,前記三説(雲説・波説・アイヌ説)のすべてが渾然一体となってイメージされている,という説であろう。
 私は,梅原先生と同様,ロマンチストではあるが,梅原先生ほど想像力が絶倫ではない。ただ,私自身も,この雲形紋様をみたとき,私が幼少時(幼稚園時代),両親に連れられて,亡父の長姉の嫁ぎ先(北海道旭川市)を訪ねて,北海道紀行の旅をしたときのアイヌ民族衣装にみられた文様のイメージが記憶の中に鮮烈に残っており,円空の鉈薬師寺の諸像を鑑賞した際,即座に,前記三つのイメージをほぼ同時に想起した。という訳で,「雲形文様」の解釈に関しては,梅原説に全面的に賛成である。

 他にも,「鉈薬師堂の円空仏」に関しては,円空が「合掌童子の像の手に仏舎利をもたせた趣旨は何だったか」とか,十二神将に込められた円空の想い等,論じられるべき論点・興味は尽きない。が,今回のブログは,この辺にとどめておきたい。

 

※追記(令和2年6月22日)

今朝,机の上に置かれた梅原先生の著書(『歓喜する円空』)の裏表紙が目に入った。そこに掲載されていた,梅原先生のお写真の背景にある仏像が,善昌寺所蔵の薬師如来であったことに,今さらながら気づいた。善昌寺のある名古屋市昭和区石仏町は,梅原先生が,かつて旧東海中学に通学されていた当時の下宿先(伯父の家)があったとのことで,石仏町では,当時,日夜,大勢の株屋の小僧らがバクチ(『銭回し』)をやっているのを見学できたし,近所に名古屋劇場(ストリップまがいの劇場)もあり,梅原少年は,この町で,いろいろなことを学んだそうだ。その意味でも,同寺・同像には,格別の思い入れがあるようだ。