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円空仏(ENKU)入門8「鉈薬師堂には,何故,円空作「聖徳太子像」があるのか?」

鉈薬師堂(名古屋市千種区田代町)には,異色で異様な雰囲気を醸す円空仏が残る。それが,聖徳太子(厩戸皇子?)2歳時を模った,合掌童子像だ。

(小島梯次著「鉈薬師の円空仏」より写真引用)

そもそも,上掲童子が聖徳太子像であるか否かについては,
異説もないわけではないが,やはり,
「聖徳太子像」と考えざるを得ないであろう。

何故なら,聖徳太子が二歳のとき,東に向かって合掌したところ,
手の中から仏舎利(釈迦の遺骨)が現れたという伝承があり,
(この仏舎利を祀った堂こそ,法隆寺・舎利殿である。)
「童子が物体を合掌する手の中に抱える」といったモチーフは,
聖徳太子の当該伝承以外には残されていないからだ。
そして,当該伝承が,江戸時代に生きた,あらゆる僧侶の教養として,一般化していたかどうかは疑問のあるところであるが,円空の場合は,法隆寺と法縁があったことから(その証拠に,法隆寺には円空作「大日如来像」が遺されている。),円空が法隆寺に逗留した際に,聖徳太子の上記伝承の情景を空想した可能性が十分にある。

 

法隆寺蔵・円空作「大日如来坐像」(朝日新聞社・図録より)

では,何故,円空は,鉈薬師堂にて,聖徳太子の合掌童子像を造顕しようと考えたのであろうか。

 鉈薬師を再建したのは,明(中国)の王族であった張振甫(亡命者にして医師)であるが,張振甫は,京都に住んでいたところ,寛文六年(1666年),尾張藩家老・成瀬豊前守から尾張に招聘され,寛文九年(1669年)尾張藩の二代目藩主・光友公から上野村陽光院にあった薬師堂(聖徳太子作と伝えられているが,実際には,鎌倉時代に造顕されたとみられる薬師仏を祀る。)を譲り受けるともに,再建のために,大量の檜(ひのき)材を下賜されたという。
 そして,この再建の際,張振甫は,円空に,二菩薩・十二神将像の造顕を依頼したとされている。周知のとおり,薬師如来の脇侍は,通常,日光菩薩・月光菩薩と決まっており,薬師如来および薬師経信仰者を守護する神が十二神将であるから,これらの仏像は,一括りにできる。ところが,先のブログで紹介したとおり,鉈薬師堂には,さらに,①阿弥陀如来像,②聖観音像,および③聖徳太子像が祀られている。
尾張藩の儒学者・細野要斎は,その著作『感興漫筆』で,二菩薩・十二神将は円空の作であることを認めつつも,上記①②は作者不詳とし(「未だ誰の作なるを詳にせず」),③の聖徳太子像については言及してないが,今日では,これら①②③を含め,(本尊の薬師如来を除き)すべて円空の作であることに異論はない。
 ところが,①の阿弥陀如来と,その脇侍であるはずの②聖観音については,本尊の薬師如来の脇侍に準ずる仏として位置づけられ,それと一体となって,発願者・張振甫の家臣・縁者の菩提(極楽浄土)を目的として造顕されたものと考えて矛盾がないが,ひとり③聖徳太子・合掌童子像だけが,本尊・薬師如来との関係が希薄で,浮いているようにみえなくもない。

 このため,円空が,鉈薬師堂で,(発願者・張振甫から明示的な依頼もないところで)如何なる造顕意図から,③聖徳太子・合掌童子像を造顕するに至ったかは,未解明の課題として残されており,議論の余地がある。

(円空学会編「円空研究 3」より写真引用)
 
 この点,梅原猛先生は,この聖徳太子像が「薬師曼荼羅からはみ出る」存在であることを認めつつ,円空の造顕意図として,当該像は,①聖徳太子像であると同時に,②張振甫像でもあり(したがって,手中の仏舎利は,日本への亡命途上で死亡した臣下の骨を意味する。),さらには,③自刻像でもある(したがって,手中の仏舎利は,円空自身の母や亡縁者の骨をも意味する。)といった,多重的な意味合いをもつ,といった大胆な仮説を述べられている(『歓喜する円空』201頁)。

 思うに,梅原説のうち,③の自刻像の意味合いを兼ねるとの見解は,やはり採用できない。あまりに根拠が薄弱であるばかりか,発願者・張振甫の発願・造顕依頼の趣旨にも反するであろう。が,上記②の造顕意図は,その像容をじっくり鑑賞すると,正しい本質を突いているように思われる。

 もちろん,童子のモデルは,あくまでも聖徳太子であって,張振甫ではない。しかしながら,二歳時の聖徳太子・合掌像をじっと見ていると,私は,童子が東を向いて,合掌状態で静止している状態を描いたというよりも,ある種の動きを感じる。具体的には,太子・合掌童子像が,像の下半身に描かれた波間(海面)の中からヌッと斜め上向きに立ち現れたかのような動きを感じる。すなわち,童子が手にもった舎利は,張振甫らが,亡命途上で海賊に襲われた際,海底の藻屑となっていた臣下・縁者らの遺骨であり,それが,聖徳太子の合掌する手によって,まさに海底から拾い上げられ,海上に浮かびあがり,供養されている情景を造顕するといった,造顕企図に基づくような気がしてならない(ちなみに,張振甫は,海賊被害を幕府に申告しているという。)。勝手な思い込みかもしれないが。