北口雅章法律事務所

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円空の造像数は,十万体に至ったか?

円空は,生涯に何体の神仏像を造顕したか?
通説的見解によれば,十二万体に至ったとされているが,
否定的見解も少なくない。

伝承によれば,十万体,ないし十二万体の神仏像が造顕されたとされる。
具体的には,①『張州雑誌』(内藤東甫1789)によれば,「円空一生のうちに諸仏像十万体を彫刻し諸国に奉納の念願あり」との記載があり,②荒子観音寺蔵『淨海雑記』によれば,「(円空が)諸国を巡歴し,仏像12万体を刻せり」との記載がある。しかしながら,これら資料は,円空没後95年以上も後に書かれたもので,確たる根拠に基づく伝承とはいえない。

通説的見解が,十万ないし十二万体の神仏像が造顕された根拠は,今上皇帝像の背銘に墨書に「當國万佛(当国万仏) 十マ佛作已(十マ仏作りおわんぬ)」と書かれていることを根拠とする。すなわち,「十マ仏」を「十万仏」と読み,「当国=飛騨で一万仏,全国で併せて十万仏を作り終えた」と解釈するのである(棚橋一晃『奇僧円空』248頁)。
 しかしながら,上記理解には批判も強い。「マ」は,和田萃(あつむ)名誉教授(京都教育大学)によれば,「部」の略字であって,円空自身,上記墨書でも「万」の意味で「万」という字を使っていること(「當國万佛」),一方,円空の和歌には,「部」と表記すべきところを「ア」ないし「マ」に近い略字を当てた例が複数あることから,上掲墨書については,「全国(「當國」)で1万体の仏像を彫り,十部仏,すなわち,あらゆる種類の仏を彫り終えた」と理解する見解も有力である(池之端甚衛『飛騨と円空』143頁以下参照)。ちなみに,円空が「部」に代えて「ア」ないし「マ」の略語を使った例として,「夏虫の身をいたつらに けさ(袈裟)の山 ひとつ思ひの 夕ア(部)成(り)けり」[152番;「夕部」=「夕べ」の当て字である],「世をのかれ(逃れ)空にのほりて有明の 福マの嶽に出る月哉」[568番;「福マの嶽=ふく部(べ)のたけ=瓢(ふくべ)ヶ岳」の音通となる]などが挙げられている。


 もっとも,そもそも上掲墨書の「マ」の部分は消えかかっており,「十マ佛作已」と読むことに疑問を呈する見解(「こざと扁の省略形より画数があるように見える」とされる)もある(浅見龍介[東京国立博物館]『特別展・飛騨の円空』図録解説)。
 ちなみに,浅見龍介氏の解説によれば,
十二万体の造像を物理的に無理とする見解もあるが,どうだろうか。千日回峰,不断念仏など僧侶の修行には常人の想像を絶するものがある。今に残る千体仏を見ると円空にとって像仏は作善であり,修行であったように思われる。木端仏ならば1日50体は不可能ではないだろう。20日で千体,その行を年4回行えば,30年で十二万体になる計算だ。」と述べられている。

では,法律家である私は,この問題について,どのように考えるか?

現在,発見されている円空仏の数は,せいぜい5500体である(小島梯次著「円空仏入門」によれば,平成25年9月現在で5379体)。
明治政府の「廃仏毀釈」政策で,相当数の円空仏が破壊されたとしても,円空仏は信仰の対象であったことから,多くは隠匿・保存された可能性もあり,4分の1に激減することは考えにくい。岐阜県関市池尻の弥勒寺のごとく,寺院の火災(大正年間)で数百体が焼失した例もあるが,十万体という数には,到底,届かない。とすれば,円空が,造顕できた神仏像数は,恐らく2,3万体がせいぜいのところではないであろうか。

なるほど,浅見龍介氏の解説のとおり,修験僧の達人ともなれば「常人の想像を絶する」ものがあり,円空の像仏スピードは,超人的であったことは想像に難くないのであって,物理的に不可能だとは思わない。

しかしながら,円空が,「像仏の抽象化」を志向するようになった時期は,延宝2年(当時43歳)で,像仏を開始(寛文3年:当時32歳)から,既に十年を経過している。また,晩年の名作である太平寺旧蔵の十一面観音を像仏した元禄2年(当該58歳)でも,この一軀を像仏するのに7日間もかけている。したがって,円空が,「数あわせ」のために,信仰・供養を目的とした神仏像を「粗製濫造」したとは考えにくい。

 そもそも,円空の像仏期間は,32歳(寛文3年)から約30年に及んでおり(元禄4年・60歳時,岐阜県高山市の八幡大菩薩を造顕したのが末期に位置づけられる),たとえ,当時の円空にとって,2年前の自身の「新作」であっても,一昨年,自分が何体像仏したか覚えていられるわけがないし,まして,10年,20年以上も前の,像仏数など覚えていられるわけがない(したがって,円空本人が像仏数をカウントできないのであるから,トータルで10万,12万という数は,虚構・神話に決まっている。)。また,円空が像仏数をカウントしていたことを認めるに足りる証拠資料(メモ等)はない。かえって,像仏数に拘り,カウントしていたとなれば,それ自体が,「執着」であって,大般若経や,法華経の教義に反するのではないか。

ちなみに,昔,忍者は,
カウントした数を,どのような方法で記録したか?

白土三平「カムイ外伝」より