北口雅章法律事務所

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かつての法学徒が,憲法記念日に考えること

昨日は,憲法記念日(祝日)で,朝日新聞には,
デカデカと,「東京大学教授 石川健治さん」
「これからの立憲主義」と題するインタビュー記事が出ていた。
前のブログにも書いたが,彼は,大学教養部時代は,
語学のクラスメートだった。したがって,
私も,彼と同じ教室(900番教室)で,
彼が,大学で受けたのと同じ内容の憲法講義(樋口陽一教授)を受けている。

したがって,
上掲新聞の中見出しに
「憲法9条の統制力
 戦後の自由を形成
 平和主義を支えに」
排除か共存か
 問われる『選択』
 確かな文明観を」

とあり,「朝日新聞」(!)となれば,何が書かれているのか? は,読まなくも,およそ見当がつく。だが,石川センセイは,あいかわらず「お師匠」の樋口名誉教授の御説を踏襲されているのであろうか? と思いつつ拝読した。

われわれが大学を卒業して以後,「隣国では」次々に平和憲法の前提(国際社会の信義)を揺るがし,日本国憲法が理想とする「人権保障」を踏みにじる異常事件・異常事態が多発し,今も継続している。
いうまでもないが,
①「隣国・中国」では,時の最高指導者(鄧小平)に対して批判的な学生らのデモを「戦車で粉砕」するといった天安門事件香港でのデモ弾圧ウイグルでのジェノサイド,②「隣国・北朝鮮」では,日本国民を国家組織的に拉致しておきながら居直り,狂った「領主・小僧」が,弾道ミサイル実験,核実験を繰り返し,日本国民を威迫・威圧し続けているという現実があり,③「隣国・ロシア」に至っては,白昼堂々とウクライナに侵略戦争を仕掛けて,「非戦闘員の殺戮」を繰り返し,「核兵器・化学兵器の使用」を脅迫手段として,「敵国」を支援する他国をも恫喝する,という現実がある。

このような国際社会の現実を目の当たりにすれば,
憲法9条を根拠とした,自衛隊=違憲論を唱える,徹底した平和主義,戦力不保持,交戦権の放棄が,国民の安全保障(国防)の理念との関係で,合目的的ないし合理的なものといえるのか?という疑問を抱かざるをえない。このため,私自身は,旧来の理想主義的な平和主義の立場(護憲派)から「転向」して,現実主義的な,国防政策が許容する方向での改憲が必要ではないか,と考えるようになった(国防=自衛目的の武力行使を容認すると,結局は,「国防=自衛」の名目のもとに,敵基地に対する「先制」攻撃(核攻撃)も認めることにならざるを得なくなるのではないかと考えるが,やはり「不正の侵害」に対する「反撃」という要件は欠かせないであろう。)。

さて,石川先生のご見解を拝読すると・・・
「(憲法)9条について,理想主義に過ぎ,『お花畑』と揶揄する言説があります。どうお考えですか」との質問に対し,
議論の次元が間違っていると思います。9条は,国防の手段を定めた条文ではありません。軍事力を統制し自由を確保する,立憲主義の統治機構を構築するための条文です。しかし,国家は国民の税金で運営されている以上,国民に安全を供給する義務があります。9条があるからといって,国家が安全供給義務を免れるわけではありません。」 と書かれている。

かつての「級友」ながら,ええっ?と首を傾げざるを得ない。
議論の次元が間違っていると思います。」と書かれているが,はたしてそうだろうか。「9条は,国防の手段を定めた条文ではありません。」といわれるが,「国防の手段」として,その中核に位置するのは軍備・軍事力であって,9条は,この軍備・軍事力(「武力」,「戦力」)を禁止し(「保持しない」),放棄させてるのであるから,「国防の手段」の定めと無関係ではありえない(「政治的・経済的・社会的な安全」が機能しない場面でこそ,「軍事的な安全」も考慮に入れざるを得ない。)。
 逆に,石川先生は,「9条があるからといって,国家が安全供給義務を免れるわけではありません。」と論じられているが,憲法9条には,国の「安全供給義務」などという文言はない。「国防の手段」に関連する条項としては,前文(「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」)を別とすれば,憲法9条の他には,存在しないのである。「隣国に位置する」「好戦的な諸国民」が起こした,数々の前記「現実」を前に,わが国においては,「国防の手段」としての軍備・軍事力の要否・限度について,国の「安全供給義務」の観点から適切な規定を創設するのが喫緊の課題であり,その指導原理を具体的かつ適切に提示・提唱するのが,東京大学の憲法教授に課せられた職責ではないだろうか。
 「自衛隊明記という名の下に9条の中身を変えることは,自由のシステムを壊すだけに終わる可能性」があることは理解できる。だが,「軍事力を統制し自由を確保する,立憲主義の統治機構を構築するため」に「9条の中身」をどのように改正するのが適切なのか,国際社会,特に「隣国との国際関係」に関する上記「現実」との関係で,どのような形で国の「安全供給義務」を確保するのが適切なのか,が今まさに現実問題(新たな「制度のメカニズム」の構築方法)として,問われているものというべきであろう。

伊藤博文のような「(確かな)文明観」って,何なのか?
もうちと,具体的に説明してもらわないと,私には解らない。